あなたは無意識にお金の呪縛に取り憑かれていないだろうか?
編集長のlivest!ログ
2019年1月26日
0円契約Jリーガーが示す「お金の本当の意味」
昨シーズン、水戸ホーリーホックに加入した安彦考真選手は、40歳でのJリーガーデビューとしてNHKに特集されるなど注目された。
しかし年齢以上に日本サッカー界に大きな衝撃を与えたのが、年俸「ほぼ0円」でプロ契約したことだった。
「プロとは何か?」
安彦考真選手の話題となると、サッカー関係者、特に日本サッカー界のピラミッドの上部に位置するJリーグ関係者やマスメディア関係者からは、40歳でのプロデビューということと合わせて、ゼロ円契約という契約内容について、かなり懐疑的な声が上がったという。
実際、安彦考真選手も直接間接問わず、その点については嫌というほど耳にしたと笑っていた。
実際はリーグ規定により0円での契約ができないということで、最小単位での「形だけの有給」で水戸ホーリーホックと契約していたらしいが、年間でも100円に満たない額で、ほぼ0円契約と言っても嘘ではない実情だった。
安彦考真選手は今シーズン、新たにY.S.C.C横浜に完全移籍。J3を新しい挑戦の場と決め、すでにチーム練習に参加している。
横浜も同様に0円契約ができないということで、クラブと相談して「月10円」でのプロ契約を締結したという。
「Jリーガーで年俸が1年で10倍に上がる選手はあまりいないので、それも面白いかなとクラブと話し合って決めました」と安彦考真選手はその契約について笑って語っていた。
昨シーズンの衝撃が大きかったせいか、今シーズンの新たな月10円契約についてはあまり話題にはなっていないが、それでも多くの人から「それでどうやって生活するんですか?」と心配されたり、「プロサッカー選手という憧れの職業を冒涜している」「私はあなたをJリーガーとは認めない」という意見は今でも本人のもとに多く届くという。
安彦考真選手がどうやって生活するお金を工面し、今後どういうプランを描いているかはまた別の機会に取り上げるとして、今回の安彦考真選手による2年連続での「ほぼ0円」(携帯電話のキャリアの宣伝みたいだが)契約が良し悪し両面で話題となっているのか考えてみた。
私たちが無意識にお金というものに支配され、お金というものを絶対的な存在と思い込み過ぎているのかもしれないと感じたからだ。
現代社会に生きる私たちにとって「お金」とは?「仕事」とは?
「お金がないと生活できない」「お金が人間らしい生活ができない」
それは確かに事実ではあるが、一方で「仕事」としてプロ契約する際に「お金という対価をそれなりの額で得なければならない」という考え方はまた別の話だ。
現代社会は「分業社会」だと言える。
世界中の何十億人が無意識に相互補完し合って生きている。私たちが美味しい食事を食べられるのは、もちろん働いてお金を稼いだからだが、その便利な生活の土台には野菜や牛を育てる人がいて、加工する人がいて、畑や港から輸送する人がいて、陳列し販売する人がいて、調理する人がいて、初めて美味しく食すことができる。
現代社会に生きるほとんどの人は、仕事を細かく分担することで、効率的に便利に生活ができている。
「自給自足」が当たり前だった大昔は、食事をしたければ自分で狩りに行くなり、農作物を栽培するなりしなければならなかったし、食材を手に入れても、自分で火をおこし、水を汲みに行き、調理しなければならなかった。
今はパチンとボタンを押せば、火も電気も簡単につくし、蛇口をひねればキレイな水もすぐに手に入れることができる。
そして、そのことはもちろん大前提としてお金をちゃんと払えばという話になる。
そこで多くの人はそういった細かな分担作業の効率性を買うために、自身も別の分担作業を受け持ち、対価を得ている。そして、そこで得たお金で別の人が分担して効率的に使うのに最適に加工したサービスを買って生活している。
つまり、現代社会に生きるほとんどの人間は、役割分担しながら効率的に便利に生きていて、その作業やサービスの交換を効率的にするためにお金を使っているといえる。
そう書くと「当たり前のことを」を言う人もいるかもしれない。
しかしポイントは、分業社会に生きる私たちにとって、その分担作業の対価は払う側が「その額なら払う」と決めることがたしかに多いけれど、提供側が「これだけしか受け取らない」ということもルール違反ではないということだ。
当事者同士が了承しているなら無報酬でもいい。それぞれが担う役割に対して取引される額は、常に労力に比例する必要はない。まずは誰かのために働き、人類共通の感謝の尺度として、対価としてのお金が支払われる。「その額が多ければ多いほどいい」というのは決して絶対的なルールではない。
「生活費を稼ぐための仕事」「仕事をするのはお金を得るため」という固定観念が強過ぎると、今の仕事の対価によって生活の質も決まってしまう。
「お金をもらわない仕事は仕事ではない」と決めつけてしまうと、仕事は必要以上にその意味の重みを増してしまう。
私たちは分業社会の中で生きている。不可抗力で失業した時は社会的なサポートを受けて立て直しを図る機会を得られる。お金を稼げない人や(ケガや病気などで)稼げない理由がある人も、ルールのもとで社会が薄く広く分担し合って助けることができる素晴らしい仕組みを私たちは持っている。
この「分業社会」という考え方を念頭に置くと、安彦考真選手の契約が「お金の意味をもう一度、自分の頭で考えてみませんか?」という提案にも思えてくる。
「お金を稼ぐ行為」を多くの人は「仕事」という。
そして「仕事はお金を稼ぐため」だと考えてしまいがちだ。
しかし、それは分業社会の仕組みを表面的にしか見ていない可能性がある。
分業社会では、実際に対価を得るわけではない専業主婦も、家事をしたり育児をしたりして、他の人から託された業務を分業して請け負うことで他の人の生活のサポートをしていると考えられる。極論すれば、お金を稼がない子どもたちも、親や親族にその存在で幸せや安らぎを与えるという役割を担っているともいえる。(養育は将来、自分が老いた時に養ってもらうための〝投資〟と捉える人さえいる)
私たちの現代社会では、ともすれば「お金」が考えの最上位に来てしまいがちだが、まずは「分業社会」という仕組みが先で、その社会の仕組みを円滑するツールとしてお金があるという考えに基づけば、すべての人は何らかの形で必ず社会に貢献しているし、その貢献の尺度がお金による対価の額では測れないということも理解できるはずだ。
安彦考真選手の存在は、同世代である40代を中心に大きな勇気を与えている。
「よし自分も頑張ろう!」「自分も何か新しい挑戦をしよう!」と思わせたり、彼の生き方や考え方から影響を受けることで、彼のファンが分業社会で請け負っている業務の質が高まる可能性がある。
多くのプロサッカー選手がそういった対価を所属するクラブから一括して年俸として受け取っているが、安彦考真選手はクラブを経由せず、自身でその対価を(お金という形に限らず)得ようとしているだけだと捉えるのは彼に好意的すぎるだろうか?
近いうちに、ぜひ安彦考真選手本人から、どういう考えを持って行動しているのか聞いてみたいと思う。
私が想像している以上のとてつもないアイデアを持って行動しているかもしれないし、もしかするとまったくの策略抜きで本能のままに生きているだけかもしれない(笑)。
それでも、お金の重要性が身にしみて感じていて、無意識にお金に支配され過ぎている人、特に安彦考真選手と同世代の40代の人にとっては、折り返し地点を過ぎつつある残りの人生を見直すきっかけを与えてくれるように思えて仕方がない。