誰もが持つ自身の経験と知識を共有できればもっと人生は豊かになる
人生を哲学的に見つめ、日々考えたことや感じたこと、学び、体験についての思いをまとめ、書き留める「人生哲学研究家」のブログ。
編集長ブログ
2019年4月10日
誰もが持つ「小さな博士」をつなげよう
子どもの頃は自分のまわりにはたくさんの「博士」がいた。
昆虫の種類や飼い方に精通しているだけでなく、近所の公園や空き地の生息場所や捕獲方法など、昆虫のことを質問すればなんでも答えてくれる「昆虫博士」がいた。
ほかにも車や電車のことに詳しい「スーパーカー博士」や「ブルートレイン博士」テレビゲームの種類や裏技に精通している「ゲーム博士」プロ野球ヲタクの「野球博士」など仲間内で流行っている事柄に精通していて尊敬を集める博士が教室の中にたくさん存在した。
自分の過去を振り返っても、小学生の頃はいろんな事柄に興味を持っていた。一時期「博士」レベルの賞賛を集める事柄も少なくなかった。
翻って今。自分の中で「このテーマに関しては博士レベル」だと胸を張れる事柄がなくなっていることに気づく。
なぜ大人になると「自分の中の博士」がいなくなってしまうのだろう?
哲学者ソクラテスの有名な言葉に「無知の知」というものがある。
ソクラテスを糾弾する裁判の時にソクラテスが語った言葉を弟子のプラトンがまとめた書物『ソクラテスの弁明』の中に出てくる言葉だ。
その裁判は、優れた知識を持つだけでなく弁論も優れたソクラテスに嫉妬を感じた他の知識人たちがソクラテスにケチをつけるために起こしたもの。その裁判でもソクラテスが見事な弁明を展開し、結果的に余計に陪審員たちの不興を買ってしまったことで、ソクラテスは無実の罪で有罪となり死刑となった。
その時のソクラテスの言葉の1つを要約すると、
「我々は善美なることについて何も知らない。しかしあなたは知らないのに知っていると思い込んでいるのに対して、私は知らないということを知っているという点で、私の方が少し優れていると言える」
私たちが知っていると思っていることも実際は完璧に知っているわけではない。だから何事も「私は知らない」ということを前提に謙虚な気持ちで学び続けることが大事だとような趣旨と捉えられる。
実際は私たちの周囲には「博士」と呼んでもおかしくないくらい専門分野に詳しい人はたくさんいる。
しかし、子どもの頃のように周囲が「博士」とまつりあげないし自分で自慢することもない。そもそも普通の大人は自分の知識が「博士レベル」だと自覚を持つこと自体が少ないだろう。
子どもの頃よりも大人になってからの方が知識も経験も、分析も考察も数段優れているはずなのに「博士」と胸を張れない。それは年齢を重ねる過程で無意識にソクラテスが示した「無知の知」を自覚するからかもしれない。
「自分よりもっと優れた人がいる」「もっと詳しい人にはかなわない」ーー知識や経験を積み重ねれば積み重ねるほど、(実際に会ったことはなくても)自分より優れた人が世の中にはまだまだたくさんいる、上には上がいるということを知る。
そしてある意味謙虚に、せっかくの自分の優れた一面に対して低めの自己評価をしてしまう。
確かに何事においても上には上がいることは事実だろう。しかしその人が持つ経験や知識にまだ到達していない人が世の中には少なくないというのもまた事実だと言える。
人生40年生きてきて、ビジネスパーソンとして20年以上キャリアを積んでいる人なら誰でも相応の知識と経験を積み重ねている。
その知識や経験はもちろん完璧ではないけれど、それでもその人の経験に基づいた「生きた知」であることは間違いない。そしてその「生きた知」を提供してもらうことで、より成長できると感じている人も少なくない。
これだけ技術革新が進む今、それらの「生きた知」を有効活用できる場がもっと増えれば、提供する側も成長できるし提供された側もより成長できるだろう。そんな場が増え、そんな場に気軽に参加する人がもっと増え、それらの積み重ねが加速することで日本全体にまで良い刺激が波及するように思う。
このlivest!では、自身の経験や知識をより多くの人に共有してもらいたいとサッカー選手やスポーツトレーナーたちが協力してくれている。そのメッセージをWEBを通じて見てくれている人も増えている。その輪はまだまだ小さいけれど、少しずつ大きくなっているように感じる。
ただ彼らのメッセージを受けるだけの人が増えることでも、その輪は広がっていく。しかし「小さな博士」として参加する人が増えればより和の幅が広がるはずだ。
今後「小さな博士」たちの参加が増えることを期待したい。