安彦考真選手が選手&指導者の両方の立場からスポーツ界の難問に挑む
夏休みは学生スポーツにとって目標となる公式戦が行われる重要なシーズンでもあり、また選手として成長できる貴重な期間でもあります。
一方で、指導者にとっても夏休みの期間の試合や練習は、じっくりとチームや各選手の成長を促すことのできる大切な時期です。
ひと昔前は「水は飲むな」というような非科学的で精神論的な指導も少なくなく、「スポ根」という言葉が当たり前だったスポーツ界の指導方針でしたが、科学的・医学的見地に基づいた理論を取り入れるなど大きな変化が見られます。
一方で、スポーツに関して、より高いレベルを求めての技術向上のための練習の際や、試合の中での再重要な場面など、激しい叱咤激励も時に有効となることもあるというのは頭ごなしに否定できない側面を持ちます。
「厳しい指導」と「パワーハラスメント」の境界線。
それはケースバイケースでもあり、明確にラインを引くのが非常に難しい問題だと言えます。
若い頃、ジーコやジーコの実兄エドゥーといった一流の指導者の近くで指導者としてのキャリアをスタートさせ、小学生サッカースクールから高校サッカー部の指導まで、多種多様な対象を指導した経験を持つ安彦考真選手。
かつての指導経験だけでなく、現在はJリーガーとして日本サッカー界のトップレベルの環境の中でプレーしている経験と合わせて、この問題についての私見を語ってもらいました。
安彦考真選手のリアルアンサー
2019年8月17日
Y.S.C.C.横浜
安彦考真
「厳しい指導をするならば、選手に惚れさせろ!」
僕個人が考える「厳しい指導」と「パワハラ」の境界線は、指導を受ける選手が「自分の目的に沿って歩んでいるか」どうかが大きな要因となると捉えている。
よく選手の口から「指導者の対応が選手によって違うと感じる」という愚痴を聞くことがある。
「自分には厳しいが、誰々には何も言わない」
選手に限らず、多くの人が「上手い人は言われない、下手な人は言われる」という認識をもっているようだ。
指導者の立場から見れば、きっと多くの指導者は「みんなに平等だ」というだろう。しかし僕はそうは思わない。
僕は指導者時代は選手によって対応を変えていた。しかもできるだけハッキリ変えていたからだ。
それはどういう考えを土台にしていたか。
僕個人が考える「厳しく言っていい選手」は、その人自身がしっかりと自分の目的を持ち、自分の人生を歩いている人。逆に「厳しく接しないようにしていた選手」は、他人の目が気になり、その組織の目的の中で生きている人と区分けし、対応を変えていた。
そんな僕の対応の差を「不公平だ」と思う生徒もいた。しかし重要なポイントは「組織の目的と個人の目的が一致しない選手もいる」という点だ。
チーム全体に課す課題に対してクリアできていても、個人の目標が定まっていないという選手に対しては、ある程度の厳しさでストップしておくことが必要だ。
そういった選手は「チームとしての目標」の中で自分を活かそうとするため、一定以上を厳しく求め過ぎると、選手にとってそれが大きなストレスになってしまうこともあるからだ。
しかも、そういった選手は頑張りがきくことが少なくないので、指導者が求めることを全面的に受け止めてしまい、徐々に精神的に参ってしまう危険性をはらむ。
しかし、チームの目的に対して戦うことができ、なおかつ個人の目的もしっかり定まっている選手の場合は、僕の経験則ではかなり厳しくしても大丈夫だと考えていた。
火事場のくそ力と同じで、選手のレベルアップは極限状態になることで生まれることが少なくない。
こういった選手は、実力も自信も持っている選手であることが多いので、むしろ適度に極限状態になる場面を作っていかないと、自分の能力に溺れ、チームにとってマイナスになるような態度を取ってしまう危険性を持つ。
世間一般で「パワハラ」と言われることは、組織という中でしか起こらない。
僕個人は「厳しい指導がパワハラと受け取られるかどうか」は「それぞれの選手の目的意識が明確かどうか」がもっとも重要な要因だと考えている。
僕個人は目的意識が明確だ。だから、僕が今の選手の立場から見れば、どんなに厳しい指導でも絶対にパワハラと感じることはない。
例えば、水戸ホーリーホックのときに僕は1試合も公式戦に出場することはできなかった。
そうなると多くの選手は自分の存在をチームや指導者と対等だと考えなくなり、指導者に嫌われないようにしたり、チームから嫌われないようにしたりするだろう。
僕は、僕の戦っている目的を常に明確に表現していたし、たとえ1試合もベンチ入りもしていない立場でも、チーム全体の前でチームのためを考えての発言を何度もした。
その態度を貫き通すことで、チーム全体が自然と僕の生き様にリスペクトをしてくれることに繋がっていった。
自分のことを自慢しているわけではない。それは「尊敬」といったものではなく、僕のブレないスタンスに対する「敬意」だと受け取っている。
そこで、これからの指導者に僕からの提案。
「厳しい指導をするならば、選手に惚れさせろ!」
ただし、「自分に惚れさせる」方法は自分の生き様を示すことだ。
厳しい態度や暴力的な言動は問題外。言葉だけであれこれ伝えようとするのでなく、示すのは「自分の生き様」。これを選手に伝え続けることで、「自分の生き様」に惚れさせることで、厳しい指導が初めて意味のあるものになると考える。
どんな組織でも、選手の意識はバラバラだ。全く同じなんてありえない。
ならばすべきことは、先ず指導者が自分は何のためにここにいるのかを明確にすることだ。
「シドウシャ」は指導者である前に「始動者」でいるべきだ。
何事も自分がスタートで、それは行動によって示されるものでなければいけない。
指導者よ、選手に惚れさせろ!
そのために、まずは何事においても自分から動き出す「始動者」になれ!