なぜ、日本サッカーは〝熱〟を失ってしまったのか? 安彦考真のリアルアンサー

2024.12.7

livest!編集部

 

安彦考真のリアルアンサー

日本サッカーが失った、3つの〝喪失〟

 

今、サッカー日本代表は、歴代最高レベルの強さを誇っている。
そして、結果も出ている。
にも関わらず、以前ほど注目度も、熱狂度も高まっていない不思議。
ジーコジャパン、ザックジャパンの時代なら、この圧倒的な強さがあれば、話題はサッカー日本代表一色だったはず。

ではなぜ今の日本代表は社会という目線で見た時に、熱狂していないのだろうか。

これだけ世界で活躍している選手がいるのも関わらず、考えれば考えるほど不思議でならない。

 

驚くほどの反響を生み出したSNSの1つのつぶやき

この冒頭部分の疑問をXにて投稿したところ思いもよらない反響が寄せられた。

インプレッションという表示回数では285万回という驚異的な数字となる、コメント数は673、リポストは962、いいねは8773となった。

 

その中でもっとも多かった理由は、地上波での放送がされなくなったという点。
その次は野球(大谷翔平)、そしてスター選手がいないというものだった。

もちろんこれだけではないが大きく分けるとこの3つが挙げられる。

 

しかし、これだけ多くのサッカーファンが日本代表に対して思いを馳せているのだなと改めて感心させられた。

もしこれが格闘技の場合、ここまで反響があるかどうかは試してみたい気にもなっている。

 

さて、僕が考える、日本代表が熱狂されない理由だが、一つではないと思っている。

僕の持論ではこの3つが重なり合って起きている現象なのではないかと思う。

 

安彦考真が考える理由その1 <観戦機会の喪失>

僕が考える理由の1つ目は、皆さんが言うように地上波の影響は大きいと思う。

それは多くの人にアプローチできないと言う理由もあるが、「茶の間」と呼ばれる場に対して訴求ができなくなったことではないか。

やはり、スポーツは端末で1人で見るより、大勢(家族)で見た方が盛り上がりが違う。
一喜一憂しながら、その感動や感情を共有できるのがテレビの良さだった気がする。

誰と見るかで次の日の熱狂も変わってくるのではないか。

それがドラマやバラエティであれば端末でもいいと思う。

スポーツの場合は、やはりライブでその瞬間に起きる状況を感情の変化とともに誰かと共有することに意味があると思う。

ドラマやバラエティで生観戦はほとんどない。
スポーツだけがライブでその瞬間に何万人と言う人が入って熱狂を生む。

DAZNになってしまったことで課金する文化が始まった。
それ自体は決して問題ない気がする。格闘技はなどはそれでもかなりの課金になり盛り上がりもある(全てではないがある団体においてはすごい熱狂を生み出している)。

課金することが問題なのではなく、スポーツを生観戦以外で観ることに対してお金を払う習慣がなかったこと。それに合わせて、単純に日本人が貧乏になってしまったとは言えないだろうか。
お金を払う文化がなかったスポーツ観戦(生観戦以外)に現在のサッカーファンが無意識的についていけていない状況があると考える。

 

安彦考真が考える理由その2 <ライヴ感の喪失>

理由の2つ目は、儚さ。
その試合を今ライブで見ないともう見れないという終わりがある怖さがない。

例えば格闘技だと、その選手の選手生命が終わる可能性があったり、そのカードが見れる時はもうなかったりと、その試合への唯一無二感が存在する。

しかし日本代表の試合は、負けたら終わりという状況下にないということもあり、いつでも見れるという「強さ」が備わってしまった。

そのことにより、今応援しなきゃもう見れないという状況は存在しない。

あの選手が代表に選ばれているうちにみたい、もう見れないかもしれないというようにこともない選手選考にも問題はあると思うが、勝利至上主義になると観客が何をみたいかを忘れてしまっている可能性もある。

 

日本において「儚さ」は非常に重要なキーワードだ。

僕の試合は日にYouTubeなどにあがるが、その再生数はひどいものだ。
しかし会場には多くの人が観戦に来てくれる。
月に行われた後楽園ホールでは僕1人の応援に120名もの人が集まってくれた。もちろんもっと人を呼べる選手はいるが、自分でやりとりしてチケットを捌いてとなると中々な数である。

そこには何があるのか。
「儚さ」だ。
46歳の格闘家に1試合に「次」などいう言葉はない。その試合で終わってしまうかもしれないという儚さがある。

ライブで見たいと思うのは、後でもいいか、今度でもいいかではダメなんだ。

それが今の日本代表にはない。と同時に日本国民にもなくなっている。

 

安彦考真が考える理由その3 <選手が発するストーリー性の喪失>

最後の理由は、選手個人のストーリーに問題があるという点。

サッカーというグローバル的な人気があるスポーツにあぐらをかいて、選手という商品へのアプローチを忘れたせいだろうと考える。

強いうまいだけで人気が取れた時代から、その人のストーリーに感動移入できることが応援の醍醐味になってきた現在。
これは無意識的にそうなってきたので、僕は私はそんなことないよと言っていても、潜在意識の中ではそこを大事にするようになってしまっている。

三苫、久保、南野、冨安…その他素晴らしい選手がいるが、彼らの内面や素の部分はわからない。

よくリールやXで流れてくるバズり動画にロッカールームでの選手の熱い言葉がある。

あれは言っている内容にバズっているだけではなく、生の臨場感や誰に入ることにできない場での素の声に耳を傾けて心が動かされているんだと思う。

やはり人はその人がどんな想いを感じ、そんな葛藤を覚えて、どんなふうに自分を奮い立たせているかに燃えるのだ。

特にアスリートとなれば、ストレートな言い回しが大切だ。
試合後のインタビューで「サポーターのみなさんのおかげです」に感動する人はいない。
そこに心躍る何かを見出せる人もいない。

カメラが向けられてない部分での「その人」を知りたいんだ。

日本代表は地上波から遠ざかっている感覚を持っているならば、もっと選手のストーリーを見せる努力をした方がいい。
どれだけ強い日本代表でもみんな葛藤がある。

菅原選手がゴールした時に久保選手と谷選手一番喜んでいたというエピソードがあるが、それが一般視聴者には伝わってこないんだ。

菅原選手のゴールが国民みんなの葛藤や苦悩を代表してくれていると思わせることに意味がある。

そのストーリーは今の日本代表にもちゃんと存在する。

JFAよ、宮本会長よ、ぜひもっと深いところまで入り込んで選手のストーリーを見せてくれ。

舞台裏こそ日本代表の熱狂に大切なストーリーを生み出す場所なんだ。

僕はそう思う。

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