舞台「M&Oplaysプロデュース 市ヶ尾の坂-伝説の虹の三兄弟」

2018.7.11

livest!編集部

舞台
M&Oplaysプロデュース
『市ヶ尾の坂-伝説の虹の三兄弟』

2018年5月26日(土)
@本多劇場

作・演出:岩松了
出演:大森南朋、麻生久美子、三浦貴大、森優作、池津祥子、岩松了

【東京公演】2018年5月17日(木)~6月3日(日)本多劇場
【宮城公演】2018年6月5日(火)電力ホール
【福島公演】2018年6月7日(木)白河文化交流会館コミネス
【大阪公演】2018年6月9日(土)・6月10日(日)梅田芸術劇場 シアタードラマシテ
【富山公演】2018年6月12日(火)富山県民会館ホール
【愛知公演】2018年6月14日(木)・6月15日(金)日本特殊陶業市民会館ビレッジホール
【静岡公演】2018年6月17日(日)三島市文化会館

 

 

ひさびさの下北沢は再開発で駅前が初心者には迷路のように感じる。
蒸し暑い中で遠回りのようにあちこち歩き回らされるだけで体力が奪われる。「これは途中で睡魔と戦うパターンか……」と思いつつ本多劇場に到着。
本多劇場は初めて。ザ・スズナリで観た「少女ミウ」以来の下北沢の劇場での舞台鑑賞。
その時は2017年6月3日ということで、ほぼ1年ぶりの下北沢、および下北沢での舞台鑑賞となる。
ザ・スズナリがびっくりするくらいの設備の小劇場だったので、今回もパイプ椅子でお尻が痛くなることを覚悟して来たのだが、本多劇場はわりとちゃんとした劇場で、古いけれど座席も座り心地は良く、2時間強の舞台で休憩もなかったが、お尻が痛くなることもなかった。

 

下北沢での舞台ということ、岩松了さんの演出ということ、1992年の再演ということで、「途中で絶対眠くなるやつだ」と事前に心配していたが、最近は良い意味で舞台慣れして舞台鑑賞中には眠くならなくなったし(笑)、前から4列目という役者さんたちと近い席だったこともあり、最後まで寝落ちせずに鑑賞できた。
隣の関西弁の女性は、開演前ずっと友人と喋り捲っていたくせに、公演が始まって本当にすぐにいきなり寝落ちしていてビックリしたが(笑)

 

舞台はやはりわかりやすいものでもなく、ただかといって前衛的だったり、逆に古典的過ぎず、ストーリーやセリフ、場面進行などは何の問題もなくついていけた。
むしろ、ストーリーは場面展開などは日常的過ぎて、特に大きな事件も起こらず、荒唐無稽な展開にもならずで、詳しくはわかっていないが「小津安二郎的」な世界観を感じた。

 

しかし、大森南朋さんは演技が抜群に自然で、役になり切るというより大森さんそのもので、改めて非常に素晴らしい俳優さんだと感じたし、麻生久美子さんの声が艶やかで良く通る美しさで、仕草や立ち振る舞いも美しかった。
さすがに4列目でじっくり見ると、ある程度の歳を重ねた感もあるのも事実だが、むしろその少し熟れた感じが、今回の役柄にぴったりな雰囲気を醸し出していた。

 

観客は、帝国劇場やサントリーホールとはまた違った感じで、華やかさもなければオタク感もない、庶民的な雰囲気の人たちが多く、本当に舞台が好きな人が集まった感じがして、いい感じだった。
劇場の座席の傾斜が少なく、おそらく自分の後ろの席の人は少し邪魔だったかもだけど、自分自身だけでいえばとても鑑賞しやすい良い劇場だった。

 

数日前に見た「酒と女とジキルとハイド」もそうだったが、今回も舞台セットは1つのみで、1つの部屋の中で時系列が進み、ストーリーが進行していく物語で、ただ時間の経過は、窓の外が明るかったり暗かったり、蝉の声が聞こえたり、光と音響をうまく使っていて、演出家が伝えたいであろう時間の経過をわかりやすく受け止められた。

 

事前にパンフレットを読んでいて演出家の岩松了さんのインタビュー内で引っかかっていたフレーズに、「突然怒り出す」という言葉があって、なぜか頭に残っていたが、実際の舞台では、普通の、もっと言えば登場人物は良い人たちだけなのに、誰もが時折急に怒り出すシーンが多く、ただその怒りはいつの間にかどこかにいってしまっていて、もしかすると我々の生活を客観的に見ると、こういうシーンが多々あるのかもと思ってしまった。
岩松了さんの描く登場人物の言動が時に極端に感じつつも、そういう細かい演出こそが「普通」に見える理由なのかなとも感じた。

 

こういう舞台にありがちだが、開始時から終了まで登場人物自体は誰も何も成長しない。
誰も大きな変化はなく、けれど登場人物たちの関係性は開始時と終了時で大きく変わっている。
名作ミュージカルやエンタテインメント系の舞台は必ず起承転結がわかりやすく示され、開始時に未熟だった主人公は最後には大きく成長していたり、夢を掴んだりする。しかし、こういう小劇場での舞台の多くは、人間の成長や起承転結をわかりやすく示すことを徹底的に避けているように感じるものが多い。

 

「酒と女とジキルとハイド」のように、見ているだけですべてが理解でき、ただ笑って、感動して、終わった後に「あー面白かった」と感じさせるエンタテインメント性の高い舞台の方が、わかりやすく受け入れられやすいし、主流とも言える。
一方で今回の舞台のように、登場人物が明らかな成長や進化を見せることもなく、また明確なストーリーの起承転結もなく、わかりやすいメッセージ性もない舞台も数多く存在する。
フランス映画などの芸術系の映画や小説はこういうものが多いような気がする。
こういう系の作品は、観客の受け止め方や感想がおそらく画一的にはならず、その人のその時の心境や環境、もっと細かく言えば、誰と観に行ったか、その日の体調、舞台を見るまでのその日の出来事など、その人のその時の心理状態によって感じ方や記憶の残り方、印象に残ったシーンやセリフなどが全然違ってくるように思う。

 

それを専門家たちは「深い」と言うかもしれないけれど、その深さは見るひとの深さ次第であり、エンタテインメントとしての舞台としては拡張性に欠ける点が大きな弱点とも言える。「わかる人にはわかる」的な。
しかし、そういう意味で、村上春樹の小説は誰もがついていけるストーリー展開があり、わかりやすい人物像で描かれ、物語は(起承転結とまでは言わないが)ある程度のデコボコした展開がありつつも、さりげないシーンや細かいセリフなどに「わかる人にはわかる」的な知的隠喩が散りばめられていて、そのあたりのさじ加減だったり、深浅の振り幅の大きさだったりが、出す本がベストセラーとなり、ノーベル賞文学賞候補と言われる理由なのかもしれない。

 

つまり、ハリウッド的エンタテイメント系作品の要素も満載しつつ、ヨーロッパ系芸術作品の「わかる人にはわかる」教養的隠喩や隠されたパロディや皮肉が深く、数多く散りばめられた作品というのが、もっとも優れた芸術作品として評価されるのだろう。

そう言う意味で、今回の舞台は、(実際はわからないが)なんとなく隠喩的メッセージが散りばめられてそうな雰囲気を持つセリフや場面転換があり、役者の演技もとても素晴らしいという意味では高等な舞台だったように思えるが、ストーリー展開の振り幅を(おそらくあえて)抑え、お上品に作っているところに、出演者と作者、演出家の自己満足的な雰囲気、「わかる人にはわかる」的な新参者が近寄りにくい雰囲気を持つ作品と言える。

 

振り返って見ると、先日鑑賞した竹中直人さんと生瀬勝久さんの「火星の二人」という舞台は、誰もが明らかにわかるギャグ的な笑いの要素をふんだんに盛り込みつつ、ストーリー展開もある程度はベタな起承転結を踏襲しつつのエンタテインメント性をベースに、作品設定自体にはちょっと隠喩を込めたありえない人間関係や人物背景設定がなされている作品で、エンタテインメントと芸術の両極端な特徴をうまく取り込もうとして消化しきれなかった感が、鑑賞後の物足りなさに繋がったのかもしれないなと、今さらながら解釈した。

 

なぜ優れた俳優や女優が舞台にでたがるのか?
舞台鑑賞ビギナーの自分には本当のところはわからないけれど、よく言われる「舞台はナマモノで再現性がないところが演技していていたまらない」とか「目の前に観客がいて、その反応がダイレクトに感じられるのがテレビや映画にない魅力」とか「公演期間を通じて自分の成長を感じられる」とかは当然あるのだろう。
しかし観客側から見た演じる人が楽しんでいるように見える点としては、上演時間が2時間なら2時間、その人が演じる役の人物は確かに生きていて、本当の意味で別人格であり、違う人の人生を太く短く刹那的に生きられる生々しさが魅力のように見える。
テレビドラマや映画では、完成した作品を見れば、その放送時間や上映時間内は確かに登場人物は生きているように見える。けれど、演じている側で言えば、ワンカットワンカットで細切れで撮影することで、また実際に放送されるシーンの順番ではない前後のシーンが逆に撮影することも少なくなく、その人物が本当に生きているようには感じづらいだろう。
その点、舞台上では、上演開始した瞬間から最後のシーン、最後のセリフが終わるまで、自分が演じる人物はずっと生き続けている。途中でカットがかかることもなく、撮り直しもなく、途中でメイクさんが化粧直しすることもなく、天気の回復を待つこともない。

 

「自分が演じる人物とはどんな人なのか?」と台本を手にした時から考え、舞台稽古中も演出家や共演者たちとその解を探し続け、とりあえず見つけたその答えをもとに初演を演じながら、その解は公演回を重ねるごとに変化し、自分が演じる人物と向き合う深度はどんどん濃く深まっていく。
自分ではない架空の人物の人生や考え、存在理由をとことん考え抜く……そんな経験は、普通に生きている限りなかなか体験することはない。
どんなメジャーな作品のどんな有名な登場人物でも、自分が新たに演じる場合は、真っさらな自分だけが表現できるヴォルフガングだったりジャンバルジャンだったりを創り上げることができる。

 

そんなことを考え、構築しながら演じているのかな……と思いながら、今日も舞台やミュージカルを、そして舞台上で迫真の演技を続ける役者の憑依を観続ける。