人に感動を与えられる人の条件とは?

2018.9.21

musicalover

人生を楽しむ「独立・起業する」

人に感動を与えられる人の条件とは?

さまざまな分野で活動する人たちの人生の一部を垣間見れるドキュメンタリー番組の視聴機会は、単なる「面白かった」という感情を超えた「言葉にできない刺激や気づき」を得ることができる。
「情熱大陸」や「クレイジージャーニー」に登場するのは、自分の「やりたいこと」や「好きなこと」だけに人生のほぼすべてを捧げている人たちばかり。
報われるか、成功するか、賞賛されるか、稼げるか……。それらのことは一切考えることなく、ただ本能のままに脇目も振らずに「やりたいこと」に突き進んでいく、まさにクレイジーな人たちばかりだ。

番組として取り上げられている彼ら彼女たちは、本人たちの自覚があるかどうかは別として、客観的な視点で一定の成果を遂げた人たち、無謀な挑戦がある程度報われた人たちだ。
彼らの足元には、同じような挑戦をしたけれど、結果的に報われないまま挫折した無数の無名のままで終わった屍が死屍累々と積み重なっている。そんな無数の無名のまま終わった無念の上に、彼ら彼女たちを取り上げるドキュメンタリー番組は成立している。

番組に登場するほとんどの人が、長い歳月いつ報われるかわからない暗闇の中をガムシャラに突き進み続け、こうやって番組として取り上げられるようになるまでに本当に長い歳月がかかっていた。
彼ら彼女たちの挑戦がすごいと感じるところは、始めた時も挑戦している最中も、いつ「報われる」かその1つのゴールに辿り着くタイミングはわからない中で、それでも無我夢中で前を向いて走り続けられる点だ。
フルマラソンのように「ゴールが42.195km先にある」とわかっていてスタートして走り続けるのではなく、「もしかすると永遠にゴールすることはない」という可能性を少なからず秘めつつ、それでも走り続ける決意と精神力はなかなか真似できるものではない。

「一度しかない人生だから」ーー人はそんな言葉を簡単に口に出す。
しかし、ドキュメンタリー番組に登場する人たちのレベルで本気でそう考えて生きている人は、この世の中にはほとんどいない。出会えることも稀だ。だからこそドキュメンタリー番組は成立するともいえる。

ドキュメンタリー番組を見ていると、1回しかない人生を自分の意思を最優先に生き抜くためには、目標到達点にたどり着くため以外のすべてのこと捨てるくらいの覚悟が必要だということを改めて再認識させられる。

しかし、常人にとってそれは恐ろしく難しいことだ。「自分はけっこう頑張っている」と思っている人でも、例えば普段の生活の中で「頑張ったから今日はオフ」「頑張った自分にご褒美」と考えたりして、どこかで逃げ道を用意しがちだ。そういう人たちにとって自分で頑張ったと思っている行動は、結局はどこかで無理してやっていることであり、その挑戦はあくまで平穏な生き方という逃げ道に軸足を残した上での「非日常な行動」でしかないような気がする。
一方で、ドキュメンタリー番組で取り上げられている人たちは、報われるかどうかを考えることなく人生のすべてを自分のやりたいことに注ぎ込み、人生のすべての時間とお金と労力と精神力を一点に集中させている。この「常人では真似できない集中力」がドキュメンタリー番組を見ている人の心を揺さぶる源泉になるような気がする。

人は普段の何気ない生活の中では「光の当たった部分」しか目に入らない。ドキュメンタリー番組で成功を手にした人を見れば「自分もできるかも」と思い、その陰に常軌を逸した時間や行動を積み重ねたことや、同様の挑戦をして無残に散った無数の敗者たちが存在することまではなかなか思いが至らない。
一方で、成功者たちを見た人は彼ら彼女たちの「多大な努力と失敗の積み重ね」を、「自分には絶対できないこと」であり、「彼ら彼女たちは特別だ」とも感じる人もいるだろう。
しかし、彼ら彼女たちの多くはきっと周囲の人が辛苦と感じるような努力や失敗を特別なものと感じていないはずだ。彼ら彼女たちが経験しているのは努力や失敗ではなく、内なる情熱の発散であり、ある意味無意識の行動であって決して特別な行動ではないはずだ。そして、そういったさまざまな要素が積み重なった生き様が、見る者の感情を揺さぶるのだろう。

「自分のやりたいこと」を追求し一定の評価を得るということは本当に難しい。多くの人がどこかで「どうやって稼ぐか」というふうに挑戦と生活とを結びつけてしまいがちだし、「どこかに正解はないか」と考えて行動してしまいがちだ。
しかし「自分のやりたいこと」を一心不乱に追求することと、それなりの生活ができるようになることは本来まったくの別のベクトル上にあるものだ。
常軌を逸した挑戦は、普通の人が考えつかない行動だからこそなかなかお金にはならない。しかし、どこかティッピングポイントを超えた瞬間、お金に換算できない価値として評価されることも時にある。その分岐点を超えた人たちがドキュメンタリー番組として取り上げられるため、「自分のやりたいこと」の追求が対価を生むと勘違いしてしまうことがある。

たった1回の人生だから、多くの人は失敗しないように誰かが作った安全な道の上を歩こうとする。それが生物の生存本能の面からはしごく正しい選択であるからこそ、道を大きく外れた人の中で偶然にもティッピングポイントを超えた人の行動を見て心が揺さぶられる。
人を感動させるために生きているわけではない。けれど、まだ誰も通ったことのない「自分だけの道」を歩き続けている人を見て人は感動する。その感情は自分が安全な場所にいて、勇気ある一歩を踏み出せずにいるという葛藤でもある。
しかし実際は、誰の足元にも「絶対に安全な場所」はない。ドキュメンタリー番組に登場する人たちはそのことを無意識に知っているし、視聴者の多くはそのことに気づいていない。

関連記事