日本人が自覚しなければいけない未来図

2019.4.15

哲学研究家 RUI

私たちの「意識」よりずっと早く「環境」の変化が進んでいる

人生を哲学的に見つめ、日々考えたことや感じたこと、学び、体験についての思いをまとめ、書き留める「人生哲学研究家」のブログ。

編集長ブログ
2019年4月15日

「日本人が自覚しなければいけない未来図」

日曜の渋谷スクランブル交差点。信号が青に変わって歩き始めた時、ふとローマの人の気持ちが思い浮かんだ。

ローマの市街地は住居地や商業地と歴史的建造物が混在している。街を歩く多くは観光客で、観光客の波をぬうように地元の人は生活している。
古くからの世界的観光地であるローマでは観光が優勢で、その中でうまく生活することが当たり前のようになっていた。

旅行で訪れた時、自分は短期滞在者としてローマの街を間借りして数日間を堪能し、そして旅を終えて日常に戻る側だった。

今、自分は東京でローマ人の立場を経験している。

週末の観光地に行くと外国人観光客の姿が目につく。渋谷のスクランブル交差点や原宿駅前に行けば、日本人の方が少ないのでは?と思ってしまうほど外国人観光客(特に欧米からの旅行客)ばかりだ。

テレビのニュースでは頻繁に外国からの労働者に関する話題が取り上げられ、コンビニのレジではカタカナの名札を見かけるのは日常となっている。
ここ数年、政府の強い方針のもと、観光地だけでなく日常の至る場所で外国人の存在が身近になってきている。今年はラグビーのワールドカップが開催され、来年には東京オリンピックが開催される。この勢いを増すべくニュースでは観光客をさらに増やすべく政府はさまざまな施策を打って出ると報道する。

島国である日本が本格的に開国し始めていることを肌感覚で実感する日々だが、これまでは私たち多くの日本人は外国人が当たり前のようにいる日常をこれまであまり経験してこなかった。
数が多くなかったぶん観光客にしろ労働者にしろ個として認識できた。ある意味「非日常な存在」として接してきた。しかしこれからは外国人がいる日常は当たり前であり、時に外国人の方が優勢となる場所や時間も増えてくることになる。

「意識より先に環境が変化している」

日々の生活を淡々と過ごしているとまわりの環境の大きな変化には気づきにくい。

中国人による爆買いまでは非日常として、自分の生活とは別世界と思っていてもよかった。しかしこれからは日本人だけで暗黙でわかりあえる「過ごしやすい日常」は徐々に減ってくる。否応無しに文化や思想の違う多様な国の人たちとの接点が増えてくる。

もし今日、自分が働いている部署に1人の外国人が派遣されたら?

おそらく多く人はその外国人を言葉も文化も異なる存在として、無自覚に自分たちの輪の中に入ってきた異分子として認識するだろう。「俺たちの輪に混ぜてあげるよ」と。

しかしもしその派遣が毎日続けば?

気がついた時には自分以外はほとんど外国人スタッフという職場の中、日本人だからといって意識改革しなければその輪に馴染めなくなっているかもしれない。いつの間にか自分が異分子の立場になっているかもしれない。

 

ラグビーの日本代表には生まれが日本以外の選手も数多く入っていて、彼らの活躍が日本代表の勝敗に大きな比重を占めている。Jリーグも外国人選手登録枠が無制限となった。今後、徐々にチーム内の日本人と外国人の比率が変わってくるだろう。

今までJリーグでは外国人は「助っ人」扱いだった。自分たちの環境に入ってきた異分子で使えなければすぐにお払い箱にすればいい「都合のいい存在」だった。
しかしこれからは徐々に外国人が増えることで、「単年で結果を出すことが当然」という「助っ人」意識を持つ者で構成される組織となっていく。その結果、日本人はこれまでのように「長い目で見守ってもらえる」立場ではなくなっていくだろう。

今、プロフェッショナルの職業から「日本人だから」という甘えは徐々に許されなくなってくる。
そして徐々にそれは普通のビジネスパーソンでも同じ環境になっていくだろう。

この流れの中で自分たちが意識すべきは「環境の変化」を後回しにしたり、見ない振りをするのでははなく、「環境の変化の先回り」を実行することだ。
「自分は関係ない」と思っているうちに、今まで日本人だからと守られていた優遇は減っていく。気がつけば自分の生まれた国の中で自分の居場所がなくなっているかもしれない。

陸上にしろテニスにしろスポーツ界では真の「日本の国際化」が進んでいる。日本の観光地を見れば、その波は確実に一般人の目の前にも迫っていることに気づく。
この流れはもう後戻りすることはない。成熟した国に生きる者として、外国人客で埋め尽くされた観光地を見てただの非日常だと考えていては近い将来取り残されるだろう。

英語が話せるかどうかといった瑣末なことでなく、真の意味での「意識の国際化」が必要とされているといえる。

関連記事