「甲子園中止」を絶望で終わらせないために

2020.6.14

安彦考真

安彦考真「人生の先輩から20代に向けてのリアルアンサー」13

「甲子園中止」の絶望から未来を見出す

安彦考真

2020年6月14日

 

新型コロナウイルス感染拡大の影響で、今夏に開催予定だった「第102回全国高校野球選手権大会」が中止と決まった。

高校野球に関しては、今春の「第92回選抜大会」に続く中止決定で、今年3年生の部員たちは目標にしていた大会に春夏ともに出場することなく部活動を終えることとなる。

このことは少し前に注目されたので、すでに各所でさまざまな意見が交わされてきた。

それらを踏まえた上で、改めて僕なりに思うことを書いてみたいと思う。

まず率直な感想は「残念」の一言だ。

高校球児のことを思うと、目指してきた大きな目的を失ってしまった喪失感は計り知れないだろう。

甲子園を夢見て懸命に野球に取り組んできた選手たちにとって、奪われた機会は替えがきかない。仮にコロナが落ち着いた後に代替大会を行うとしても、選手にとっては気休めにしかならないだろう。

 

もちろん、甲子園の夢舞台に立てるのは全国都道府県の予選を勝ち抜いた49校のみ。

そもそもすべての高校球児が甲子園に立てるわけではない。通常通り予選大会が開催されていても、途中で負けてしまった選手たちには「甲子園にいけない」というのは結果的には同じだ。

しかし、それでも予選大会が開催される限り、また予選大会に出場する限り、どんな弱小チームにも奇跡的に強豪校を打ち負かして勝ち抜く可能性を(たとえ0.1%でも)持っている。

そう考えると、やはり最初から挑戦権が奪われた選手たちに残る今夏の記憶は全然違うものになるだろう。

もしこのような状況で、自分が野球部の指導者だったら……。

果たして、僕は生徒になんて声をかけるだろうかと想像してみた。

きっと僕ならこう声をかけるだろう。

「君たちは『結果』と『プロセス』のどちらを大事にしているか?」と。

ありきたりな言葉だと思うかも知れない。

しかし、このタイミングだからこそ、挑戦権自体を失った選手たちに今一度聞いてみたい。

「『夏の全国大会が開催される、中止になる』に関わらず、君たちの努力は本物だったのかどうか?」

悔しい気持ちはすぐには消えないだろう。

けれど「甲子園の開催中止」を高校3年間での「最大の人生の教材」にするという気持ちを持つことが、選手たちの「より良い未来」に繋がると僕は信じる。

ただ「悲しい、悔しい、寂しい」で終わっていれば、そこからはなにも学べない。

何故、悲しいのか

何故、悔しいのか

何故、寂しいのか

そんな感情の奥に潜む「それまでの自分の努力」について自問自答することで、見えてくる本質があると思う。

 

高校野球の部員たちの誰もがめざす「甲子園」。

本来それだけが高校3年間の目標であったり、原動力であることはないはずだ。

しかし、ほとんどの高校球児にとっては、「甲子園をめざすこと」は絶対的な存在となってしまっている。

そんな歪ともいえる思想構造の中に「教育」という一面があるとすれば、今回の「甲子園中止」の出来事は、勝った負けたよりもっと大事なことを学ぶことができるのではないかと思う。

僕がかつて、麻布大学附属高校サッカー部に特別コーチとしてかかわっていた時、夏の全国総体「インターハイ」に出場した。

結果は一回戦負けだった。

初戦で負けて落ち込んでいる選手たちに、僕はこう伝えた。

「負けた瞬間から、もう冬の選手権は始まっているんだ。顔を上げろ、帰って次に向けての準備を始めるぞ!」

 

僕は「悔しさ」や「悲しみ」という感情そのものには大した価値はないと思っている。

大事なのは、なぜ涙を流すほどまで悔しいと感じるのか、その正体を知ることだ。

泣いて泣いて、涙枯れるまで泣いた結果、そこに残るのは何か。

「甲子園が中止」というのは、厳しい言い方をすれば、あくまで「結果」でしかない。

そう考えると、予選大会で負けた時に得られる「結果」と同じでしかない。

しかし、その結果を得るまでにどんなプロセスを過ごし、そのプロセスにはどんな思いが込められているのか。

「自分は何のために甲子園を目指していたのか」

そんなことを考えられる時間にするべきなんだと思う。

 

一緒に泣くことも、慰めることも簡単にできる。誰にだってできる。

選手たちに関わる大人ができることは、この中止がこれからの自分の人生にどんな意味をもたらすのかを、考えさせ、その選手なりの答えを導きだ出せることだと思う。

こういうときにこそ大人の底力が試されると僕は思うのだ。

 

それから、もう一つ思うこと。

それは「そもそも『明日がある』なんて誰が決めた?」ということ。

僕らは当たり前のように、明日があると思っているが、それは違う。明日は何が起こるかわからない未来だ。

甲子園もインターハイも未来だ。明日がやってくるかどうかは誰にもわからないものなんだ。だからこそ「今を必死に生きる」ことの大事さを知ることが必要なのだ。

やるべきことに対して「明日でいいか」と先送りすることは「今日と同じように明日が来る」ことが無自覚に大前提となっている。

でも、今日の延長線上としての「明日がある」かどうかは誰にも保証することはできない。

それはこのコロナウイルスの感染拡大によって、世界が一変したことを経験した多くの人が実感しているだろう。

これからの時代「今まで通り」がずっと続くとは限らない。一瞬にして世の中が変わってしまうことは、疫病流行や震災など、これからも頻発するだろう。

「コロナ前に戻ることはない」そんな厳しい時代を生きていく若者に対して、「明日はないかもしれないんだzぞ」と伝えることは大事だ。

明日がないかも知れない。ならば今を生きる僕たちができることは「今を全力で生きることのみ」だということを。

 

これからの新しい時代に向けて、選手たちは「甲子園中止」という「結果」を踏まえて「新しい生き方」というものを自分で考える必要がある。

「甲子園中止」は高校球児だけの出来事ではない。僕たち大人も含めたこの時代に生きるすべての者が、この出来事をきっかけに改めて深く考え行動すべきだと僕は強く考えている。

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