Jリーガーが考えるパラリンピックが開催される意味

2019.9.10

安彦考真

東京オリンピック&パラリンピック開幕まであと1年、両大会について考えてみる

東京五輪を控えてパラリンピックの選手たちに注目が集まっています。しかし、注目を集めることでオリンピック同様、周囲の期待が記録更新やメダル獲得に比重が置かれ過ぎる傾向も垣間見えます。

この傾向は近年より顕著になり、補助器具の性能を高めることで、近い将来オリンピック記録を抜く人類最速(最高)記録を出すパラリンピック選手が出る可能性まで出てきました。

発達障害の子どもたちにサッカーを指導するなど、さまざま境遇の人と触れ合ってきた安彦さんから見て、現在のパラリンピックについての考えを聞きました。

2019年9月10日
リアルアンサー

Y.S.C.C.横浜

安彦考真

勝敗や記録更新より自分の人生にとって大切なこと

僕は小さい頃から障害を抱える人がそばにいることが多かった。だからなのか"障害者"という言葉自体に違和感を抱え続けている。障害の"がい"をひらがなにしたところでその違和感は消えない。

そんな環境もあり、ブラジルに留学した時も多くの障害者と一緒に時を過ごした。仲良しのチームメイトのお父さん、別のチームメイトの弟、近所には脚が悪いが一緒にサッカーをして遊ぶ仲間もいた。

ある日、僕は友だちと近所のカフェにコーヒーを買いに行った(20年も前のブラジルのカフェ……今どきのカフェではなくただ椅子とテーブルがある寂れたバーのようなところw)。そのカフェに片足のない青年が現れた。

その青年は僕の友だちの親友のようだ。カフェを3人で飲んで、たわいもない話をして、あっという間に2時間以上が経った。

そろそろ帰ろうかと言うときに、僕の友だちが片足のない彼に向かって、「勝負するぞ」といった。次の瞬間、2人が急に走り出した。(ヨーイドンはなかったw)

結果は僕の友だちが圧勝。驚いたのはその後の彼の一言だった。

「おい、そんな足で勝負挑んでんじゃねぇよ。いつまでたってもそれじゃ勝てないぞ」

僕はついその友だちに向かって「おい!!」って言ってしまった。するとその片足のない彼が僕の方を見て笑顔でウィンクをしたのである。

その瞬間、ハッと我に返った。僕は彼を障害者としてみていた。

後で話を聞いたところ、2人は元々チームメイトで、ずっとサッカーをしていたが、事故で片脚を切断したとのこと。この競争はその頃からの勝負で、今でも続けているらしい。それが彼の友人にとっては何よりの救いで、自分が自分でいられる大事な時間らしい。

来年はいよいよ東京オリンピック・パラリンピックが開催される。

障害を抱える人にとって、何か目指すものがあるというのは人生のモチベーションになる。特に、先天的な障害と後天的な障害ではそこのモチベーションのあり方も変わってくる気がする。

僕は発達障害を抱える子どもたちの指導もしてきたので、彼らが抱えるジレンマを目の当たりにしてきた。競技性が強くなり、記録重視の戦いになってくると、そもそものパラリンピックの意義が変わって来てしまう。結果が出ないことで、競技者のストレスも計り知れないものになる。

そもそもパラリンピックは、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツを」の理念で始められたものである。(Wikipedia参照)

スポーツをすることで、負傷箇所だけでなく、精神の回復も共にできることが、社会復帰に一番適していると考えられたのだろう。

オリンピックを超える記録を出せるパラリンピックが訪れる時代はそこまで来ている。

それはそれで一つの進化だが、競技者のメンタル面を考えると、競技という競争ではなく、自分との戦いの中で得た金メダルのほうが、競技後の人生により華を咲かせることになると思う。競技の記録を求めすぎて、障害を抱える人たちの中で差別やイジメが出てきたら元も子もない。

今一度、僕らは物事の原点に立ち返り、文明の発展と人の進化に向き合うべきだ。僕はブラジルで出会った彼らのような関係性を作れる世の中にしていきたいと思う。

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