我が同士、小林悠との出会いと友情

2020.5.18

安彦考真

川崎フロンターレ小林悠選手と安彦選手との「友情の20年」の軌跡1

川崎フロンターレ小林悠選手。

2017年のJリーグ得点王であり、MVPに選ばれた日本サッカー界を代表するストライカーと、安彦考真選手は深く長い縁で繋がれていた。

小林選手を高校時代から指導し、その後プロサッカー選手となった小林選手と、まだJリーガーをめざす前に安彦選手はマネジメント契約を結んでサポートをしていた。

あれから3年。Jリーガーとして同じ立場となった2人は、再び強く引き寄せ合い始めつつある。

小林悠選手と安彦選手の20年間の友情の軌跡と未来についてを今、明らかにする。

 

川崎フロンターレ小林悠選手と安彦選手との「友情の20年」の軌跡

第1回

ラストイヤーを迎えて今、悠との絆を深めたい

安彦考真

 

 

悠との最初の出逢いは彼が高校生2年生の時だった。

当時、麻布大学附属高等学校(旧麻布大学附属渕野辺高等学校)で当時非常勤講師だった僕の弟が、同校のサッカー部のコーチもしていた。

 

その頃の淵野辺高校サッカー部はそれほど強豪校でもなかった。

そこで、弟が監督やOBの許可を得て、直前までブラジルのプロチームでプレーしていた僕に臨時コーチをしてほしいと言ってきた。

 

当時の僕はすでに現役選手ではなく、Jリーグ・大宮アルディージャの通訳をしていた。

それでも20代だった僕はまだまだ若く、アルディージャの活動時間外を活用して、高校生たちと一緒にプレーしながらアドバイスしていた。

 

その時、僕の発案で、選手たちのレベルアップにつなげる施策として、同校サッカー部員の中で僕が有望だと判断した数名を大宮アルディージャの監督に推薦し、実際にプロの練習に参加させてもらっていた。

普段は同じ年代の同じ高校の選手同士としかサッカーをしていない高校生が、いきなり年上ばかりのプロ選手たちの輪の中に入ってプレーする。

そんな稀有な経験は、その時はとんでもなくハードだっただろうが、同時にとてつもない良い経験となったはずだ。

 

実際に、アルディージャの練習に参加した選手たちは、もともと有望な選手だったけれど、さらにレベルアップし、心技体すべての面で高校生離れした選手に育ってくれた。

当時、小林悠選手は、サッカー部の主力として絶対不可欠な存在としてチームに君臨していた。

 

そんな悠は、僕が選抜した推薦選手の中に……入っていなかった。

 

後々Jリーグ得点王となり、リーグMVPも獲得した日本サッカー界を代表する選手に成長した悠だったが、その時の僕には正直、特別な選手には見えなかったのだ。

それは、ただ単に僕の見る目がなかったせいだ……ゴメンよ、悠。

※2017年、母校である麻布大学附属高等学校で開催された地域貢献活動「児童サッカー教室」に参加してくれた太田宏介(現・名古屋グランパス)、小林悠(現・川崎フロンターレ)、小野寺達也(現・テゲバジャーロ宮崎)。3人とも同校サッカー部出身の同期たちだ。

 

 

今でも悠はこのことをちょくちょく話題に出して、僕をからかう。

悠自身は当時選ばれなくてかなりショックだったらしいが、この時の悔しい気持ちがバネになり、より練習に精進したのなら、結果オーライだったのかもしれない……そう思って僕は自分を慰めている(苦笑)。

 

今でも昨日のように思い出せるそんな出来事も、改めて振り返るともう16年前のことになる。

当時の僕の節穴の目に止まらなかっただけの悠は、同校サッカー部のレギュラーとして活躍し、全国大会にも2度出場。

一気にサッカー界から注目される選手への躍進した。

 

その後、悠はプロには行かずに拓殖大学に進んだ。

大学在学時に水戸ホーリーホックの強化指定選手となり、ついに悠はプロの舞台に足を踏み入れた。

それから1年後、大学4年生時に川崎フロンターレのキャンプに参加した悠は、翌年、正式に川崎フロンターレと契約をすることになる。

(詳しく知りたい人は、彼のnoteを読んでもらえれば、その辺りの経緯はすべて書いてある)

 

その後、悠がプロ選手としてキャリアを形成していく過程でも、代理人を紹介したり、ケガの治療や個人トレーニングの相談に乗ったりと、良き友人としての関係は継続されていた。

 

小林悠 note

https://note.com/kawasaki11

 

 

 

それから数年経った2017年の夏。

僕は彼とマネジメント契約を結んだ。

 

その時、悠はケガが重なった時期が続き、また優勝を目前で逃したりと苦しい時期が続いていた。

けれど、彼は常に前向きで明るく振る舞っていた。

そんな素直で前向きな悠をもっと本格的サポートしてあげたいと思った。

日本でナンバーワンの選手になるポテンシャルを持つ彼の支えになりたいと考えた。

 

だから、思い切って彼にマネジメント契約を提案した。

悠はそんな僕の勇気を奮って出した提案に快諾してくれた。

僕と悠が友人という関係以上の深い縁で結ばれた瞬間だった。

 

悠が僕の提案を快諾してくれた時の喜びは、今でも昨日のように思い出す。

そして、僕がマネジメントしてからの悠は本領を発揮し、チームのエースとしてシーズンを通して大事な場面でゴールを量産し続け、チームを悲願の初優勝へと導く大活躍をみせてくれた。

また、日本代表にも常時呼ばれるようになり、日の丸を背負ってプレーする機会も増えていった。

悠が日本一の選手になる道がはっきりと見えていた。

 

しかし、僕は彼とのマネジメント契約をたった1年で終了することになる。

 

それは、僕が「Jリーガーになる」と決意したからだ。

僕が「人生の後悔を取り返しに行く」チャレンジを決めたことで、万全の態勢で彼をサポートすることに責任を負えないと判断したからだ。

悠は僕とのマネジメント契約に、そして僕の実際のマネジメントとしての行動に、心から感謝してくれていた。

僕も悠と一緒にいろいろな新しい取り組みをすることが楽しかったし、これからもずっとそうしていたいという気持ちもあった。

けれど、僕が「Jリーガーになる」という夢を追うためには、自分の120%を賭ける必要があるのは間違いないことだったし、そのことは悠もじゅうぶん理解してくれた。

 

僕の挑戦に対して悠は友人として全面的に応援してくれた。そしてその思いと同じくらい真剣に、僕を心配してくれた。

それは自身がJリーガーであるぶん、その挑戦の大変さが想像できたんだろうと思う。

それでも、悠からは一言もネガティヴな発言はなかった。素直に純粋に、心から応援してくれた。

 

僕と悠は何度も協議を重ねた末、お互い納得のいく形でマネジメント契約満了を決めた。

悠はプレーの面でも日本一素晴らしいサッカー選手だけれど、人間性の面でも最高に素晴らしい男だと、僕は改めて感じた。

彼の真摯で温かい対応は、無謀と言われ続けた僕の大きな心の支えになった。

実際、僕が夢を叶えてJリーガーとなり、水戸ホーリーホックの一員となってからも、友人としての厚い親交は続いた。

スタジアムに入れば、お互いJリーガー同士、ある意味ライバルでもあるが、いったんユニフォームを脱げば、20年近く続く友人関係として、プライベートな話をし合ったりした。

 

そんな関係が続いて3シーズン目。

僕は2020年シーズン限りでの現役引退を表明した。

 

僕は最後のシーズンを最高の年にするために、今まで以上に全力でサッカーに取り組んだ。

その一方で、ピッチを離れると、プロサッカー選手ではなくなる自分を想像する機会が増えた。

 

そんな時に、最初に思い出すのは決まって悠のことだった。

 

39歳の夏に、僕は仕事をすべて辞め、その時手にしていた収入をすべて捨てた。

どんな好待遇の仕事も、どれだけワクワクする仕事でも、夢を追うために、すべてをJリーガーになることに集中するために、僕は未練なく断ち切った。

 

けれど、そんな中で最後までためらいを感じていたのが小林悠とのマネジメント契約だった。

そういう経緯もあって、僕の夢の旅が終わる今シーズンの次を見据えた時、常に頭に浮かぶのは悠の顔であり、悠とマネジメント契約をして過ごした1年間のことだった……。

 

(つづく)

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