
どこにも属さない強さと美しさ
美術作品が持つ「見えないものを見せる」力
DIC川村記念美術館が休館するというニュースが流れたのは8月末のことだった。
これまで毎年9月上旬にDIC川村記念美術館に行き、マーク・ロスコの「シーグラム壁画」と向き合う時間を作ってきた。
薄暗く静かな「ロスコ・ルーム」で長い時間作品と対峙し、自分の心の声に耳を澄まし、自分のこれからについて考える時間を大切にしてきた。
マーク・ロスコの7枚のシーグラム絵画のためだけに設計された「ロスコ・ルーム」は、日常から離れ、過去や現在という時間の概念も忘れ、ただ「自分」と向き合うことができる場所だった。

私にとってかけがえのない神聖な場所だった
作品は変わらないのに、その年によって絵画の見え方が異なった。
それは、まるでその時の自分の深層心理と共鳴するかのようで、自分でも気づかなかった心の奥底の思いが、ロスコの絵画を触媒として、まるで御信託のように提示された。
これから進むべき道を定めるため、毎年同じ時期にDIC川村記念美術館を訪れ、長い時間「ロスコ・ルーム」に滞在して、心を鎮め、自分の内面と向き合う……という儀式を続けてきた。
私にとって、DIC川村記念美術館はかけがえのない神聖な場所だった。
そんな大事な場所を、2025年1月で失ってしまう喪失感を今はまだ受け止めきれないでいる。

754点もの素晴らしいコレクションの中の特別な作品
DIC川村記念美術館には、休館のニュースが公表された時点で、754点の美術作品が所蔵されていた。
レンブラントの「広つば帽を被った男」やモネの「睡蓮」、ピカソやシャガールなどの有名な作品だけでなく、抽象美術やシュルレアリスム美術作品も多く展示されていた。
個人的に大好きな李禹煥の作品も(運が良ければ)展示されている。
そんなDIC川村記念美術館が誇る素晴らしいコレクションの中でも、毎回作品の前で立ち止まる時間が長くなってしまうのが、エルワース・ケリーの作品「無題(パープル)」だ。

「どこにも属さない」生き方もあるんだよ
エルワース・ケリーの作品では「ブラック・カーヴ」の方が有名かもしれないが、私はこの「パープル レッド グレー オレンジ」シリーズ(1988年)の、特に「無題(パープル)」にいつも強烈に惹かれる。
白い背景に紫の四角形が大きく描かれたこの作品。
パープルの四角形は、正方形でもなく、平行四辺形でもない。
絵画作品なので平面なはずだが、じっと眺めていると立体的に見えなくもない。
「彼」(性別は不明だが、ここはあえて「彼」と呼ぶ)は、私たちが常識的に知る〝どこ〟にも属してはいない。

「カテゴライズ」することの合理性と弊害
私たちは、物事を見る時や知る時、どうしても無自覚にカテゴライズしてしまう傾向がある。
性別、年齢、所属会社、肩書き、学歴、出生地、居住地、国籍、貧富、長身、太っている……。
それらカテゴリーに属する特徴をもとに、その物事を理解しようとする。
それは便利で合理的な理解の方法かもしれない。
しかし、その根底には、物事を、相手を、常に「カテゴライズする目」で見てしまうという習性が、物事を理解する際の大前提としてしまうという問題が潜む。
彼は有名な企業に勤めているから、きっと優れた人なのだろう。
彼女はいつも笑顔だから、きっとハッピーなのだろう。
あのブランドは人気で高価だから、きっと持っていると自慢できるだろう。
あのレストランは、SNSで人気だからきっと美味しいのだろう。
社会が決めたカテゴライズに縛られず自由に生きるということ
そんなカテゴライズから憶測する私たちの習慣を、「彼」は一刀両断してくれる。
「彼」は、四角だが、正方形でもなく、平行四辺形でもなく、台形でもない。
平面だが、立体的に見えなくもない。
「彼」は〝どこ〟にも属していない。
「彼」は、私たちの貧弱な先入観のずっと向こう側に存在している。
まるで観る者に、「そんなふうに自分を決めつけなくてもいいんだよ」と優しく示唆してくれるかのように。
















