
超名作オペラ『アイーダ』の隠れた〝生みの親〟
オーギュスト・マリエットを知っていますか?
オペラは好きですか?
もしあなたがオペラをあまり知らないとしても、壮麗な凱旋行進曲と共に、古代エジプトを舞台にした壮大な物語が繰り広げられるヴェルディの『アイーダ』の名は、きっと一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
エジプトの王女アムネリスと、彼女に仕えるエチオピアの奴隷アイーダ。
そして、二人の女性から愛されるエジプトの将軍ラダメス。
三角関係の愛憎劇は、やがて国家の運命を巻き込み、悲劇的な結末を迎えます。
この作品は、その豪華絢爛な音楽と舞台美術で「スペクタクル・オペラ」の代名詞となり、初演から150年以上経った今もなお、世界中の人々を魅了し続けています。
しかし、この不朽の名作の成功には、もう一人の重要な人物が深く関わっていることをご存知でしょうか?
それが、フランスの考古学者オーギュスト・マリエットです。
彼はただの裏方ではありませんでした。
もし彼がいなければ、『アイーダ』は全く別の作品になっていたかもしれません。
今回は、ヴェルディと並び称されるべき、この「隠れた功労者」の物語を、一緒に紐解いていきましょう。

『アイーダ』の誕生:国家の威信をかけた大プロジェクト
そもそも、なぜ『アイーダ』というオペラが生まれたのでしょうか?
その背景には、19世紀後半、近代化を目指して邁進していたエジプトの強い意志がありました。
当時のエジプト副王(ヘディーヴ)であったイスマーイール・パシャは、パリで教育を受けた経験を持ち、母国の近代化を強力に推進していました。
彼にとって、スエズ運河の開通は、エジプトがもはや「アフリカ」ではなく、「ヨーロッパ」の一部であることを世界にアピールする絶好の機会でした。
そこで彼は、この一大事業を記念するイベントとして、自国を舞台にした壮大なオペラを制作することを熱望します。
この壮大なプロジェクトに、彼は当時最高のオペラ作曲家であったジュゼッペ・ヴェルディを指名します。
この依頼に対し、ヴェルディは半ば断るつもりで、15万フランという当時はもちろん現代でもオペラ制作費では考えられないような天文学的な大金を要求しました。
しかし、驚くべきことに、イスマーイール・パシャはこの条件を快く受け入れ、さらに著作権はすべてヴェルディが持つという、異例の契約が結ばれたのです。
このエピソードは、このオペラが単なる文化事業ではなく、国家の威信をかけた「国策」であったことを物語っています。

オーギュスト・マリエットという男
さて、この国家プロジェクトにおいて、イスマーイール・パシャからヴェルディへの「橋渡し」役を担ったのが、フランスの考古学者オーギュスト・マリエットでした。
彼は19世紀における近代エジプト考古学の創始者の一人であり、エジプト各地での大規模な発掘や、カイロにおけるブーラク博物館(現在のエジプト考古学博物館の前身)の設立など、数々の偉大な業績を残した人物です。
彼の『アイーダ』への貢献は、主に以下の3つの側面に集約されます。
1. 物語の原案提供:物語の「種」は考古学者の手から
『アイーダ』の制作は、イスマーイール・パシャが求める「エジプトを主題としたオペラ」にふさわしい物語をマリエットが執筆したことから始まりました。
彼は、奴隷のエチオピア人少女とエジプトの王女、そして二人が愛したエジプト人将軍の物語を考案します。
一説には、彼が発掘作業中に発見した一組の男女の遺体にインスピレーションを得て、この物語を執筆したとも伝えられています。
この壮大でロマンチックな物語は、副王の期待に完璧に応えるものでした。
マリエットが作成した原案は、友人の脚本家カミーユ・デュ・ロクルを通じてヴェルディに届けられますが、当初ヴェルディは興味を示しませんでした。
しかし、後にこの物語をヴェルディが絶賛したことで、制作が本格的に動き出すのです。
2. 考古学的知見に基づく徹底的な監修
作曲を引き受けたヴェルディは、一度仕事を始めると細部にまで徹底的にこだわる完璧主義者でした。
彼は古代エジプトの宗教儀式や慣習について、デュ・ロクルを通じてマリエットに数多くの質問を投げかけました。
マリエットは、エジプト学の専門家として、それらの質問に一つひとつ丁寧に答えることで、作品のリアリティを支えました。
巫女の合唱
たとえば、第1幕第2場の神殿の場面で、ヴェルディは女性の巫女による合唱を盛り込みたいと考えました。
しかし、古代エジプトの宗教儀式に女性が参加することが歴史的にあり得るのか疑問に思い、マリエットに問い合わせます。
当時の学説では女性の参加は否定的でしたが、マリエットは「芸術上の効果」を優先させ、「ヴェルディ氏の望まれるだけの数の巫女を儀式に加えて差し支えない」と返答しました。
この柔軟な判断によって、神秘的で美しい女声合唱が実現し、オペラとしての音楽的豊かさが増したのです。
役者の髭
さらにマリエットは、古代エジプト人が髭をきれいに剃る習慣があったことを指摘し、「役者に顎髭も口髭もあってはならない」と手紙で伝えるなど、細かな点にまで助言を行いました。
このような専門家による裏付けが、作品の信頼性を高める上で非常に重要だったのです。
3. 舞台装置と衣装の監修:本物の「エジプト」を舞台に
『アイーダ』の舞台美術がこれまでのオペラと一線を画す最大の理由は、マリエットが古代エジプトの史実に細部までこだわって制作を監修した点にあります。

「想像のエジプト」から「科学のエジプト」へ:
ナポレオンのエジプト遠征以前、ヨーロッパの人々が抱いていた古代エジプトのイメージは、古典文学や聖書、そしてローマにあるピラミッドやオベリスクの「代用品」に頼った、漠然としたものでした。
しかし、ナポレオンが軍隊と共に学者たちを同行させ、その調査結果を『エジプト誌』として刊行したことで、この状況は一変します。
写真のない時代にもかかわらず、驚異的な精密さで描かれたこの図版集は、19世紀のヨーロッパにおけるエジプト研究の最も信頼できる資料となり、近代エジプト学の誕生を促しました。
『エジプト誌』への忠実な再現:
この「科学的・写実的なエジプト」の流れは、『アイーダ』で頂点に達します。
カイロ初演時の舞台装置は、マリエットの方針のもと、『エジプト誌』に描かれた図像を忠実に参照して制作されました。
特に有名な「凱旋行進」の場面では、舞台背景の建築物が、テーベの遺跡を描いた『エジプト誌』の図像を巧みに組み合わせて構成されています。
立ち並ぶ柱はカルナック神殿に見られる「未開花パピルス柱」を正確に再現するなど、特定の土地の建築様式まで考証した、徹底的な写実性が追求されたのです。
マリエットは、このオペラを「古代エジプトを純粋に表現したエジプト歌劇」と位置づけ、「舞台セットも歴史に忠実に、衣装は上エジプトのレリーフにならってデザインする。この点では妥協が許されない」と指示を出しました。
彼は自ら衣装を細かくスケッチするなど、作品の視覚的な世界観を構築する上で、決定的な役割を果たしました。

考証と創作の絶妙なバランス
マリエットとヴェルディの関係は、単に考古学者と作曲家という枠に収まるものではありませんでした。彼らは互いの専門性を尊重し、ときに大胆な創作も加えることで、歴史的真正性と芸術的効果を両立させました。
「アイーダ・トランペット」の創作:
ヴェルディは、マリエットから古代エジプトにトランペットが存在したことを教えられ、凱旋行進の場面で使おうと考えました。
彼はルーヴル美術館の遺物を参考にしましたが、古代の楽器では豊かな音楽表現は困難でした。
そこで彼は、古代風のまっすぐな形状を踏襲しつつも、音程を正確に奏でられるピストン付きの特注楽器「アイーダ・トランペット」を6本制作させました。
これは、考古学的知見をヒントにしながらも、舞台での効果を最大化するために新たな楽器を「創作」した好例です。
アラビア音階の導入:
音楽そのものにおいても、ヴェルディは厳密な古代音楽の再現ではなく、いわゆる「アラビア音階」を思わせる旋律を用いることで、当時のヨーロッパの聴衆が「エジプトらしい」と感じるエキゾチックな響きを創り出しました。
このように、オペラ『アイーダ』は、考古学的知見を土台としながらも、それに固執することなく、オペラとしての芸術的・劇的効果を最大化するための大胆な創作が加えられた作品なのです。

なぜ『アイーダ』は特別なオペラなのか
『アイーダ』は、単なる豪華絢爛なスペクタクルではありませんでした。
それは、
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19世紀のエジプトが国家の威信をかけて推進した「近代化」という政治的文脈
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ヴェルディという天才作曲家の芸術的探求心
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そして、オーギュスト・マリエットという偉大な考古学者の専門知識
といった重要な要素が、複雑に交差する地点で奇跡的に生まれた、極めて重層的な文化遺産だと言えます。
そして、この作品は西洋の「オリエンタリズム」(西洋が東洋のイメージを一方的に作り上げること)の典型例に見えながらも、依頼主がエジプト自身であったという点で、単純化できない矛盾をはらんでいます。
それは「西洋に認められるための自己演出」であり、近代化を目指すエジプトの「自己イメージ発信」でもあったのです。

私たちは『アイーダ』を鑑賞する際、ヴェルディの壮大な音楽に心酔し、壮麗な舞台美術に目を奪われがちです。
しかし、その舞台の「正確さ」が、マリエットという一人の考古学者の情熱と知識によって支えられていたことを知ることで、このオペラはさらに深く、特別な作品として心に響くのではないでしょうか。
もし次に『アイーダ』を観る機会があったら、物語の裏側で尽力したオーギュスト・マリエットの存在を思い出してみてください。
きっと、また違った感動を味わえるはずです。















