自らの可能性をシュリンクしてはいけない

2020.3.9

安彦考真

新型コロナウイルスの影響で、社会の流れが止まりつつある日本。

学校が休校となり、企業が出勤せず業務を行うリモートワークを推進することで、朝夕の人の公共機関の混雑が緩和され、いつもは人が多く集まる場所も閑散としている時間が増えた。

また、スポーツや音楽コンサートなど人が集まるイベントの多くが中止になり、美術館や博物館、図書館など文化と触れ合う機会を提供する公共施設の多くも休館や営業規模縮小となっている。

今、日本では国民が団結して新型コロナウイルスと戦い、拡散を防ぎ、少しでも早い終息をめざしている。

それは一見とても前向きに見える。しかし、「自粛」という札を掲げ、ただ闇雲に活動を停止した現状は、思考停止状態と表裏一体だ。

自粛による営業活動の中止が死活問題となる企業や団体は、知恵を絞って対策に乗り出している。

公演を予定していた音楽コンサートを急遽ライブで配信したり、「Hulu」など従来は有料コンテンツを無料で提供するオンライン動画配信サービスも登場している。

しかし、これはあくまで新たなファン獲得のためのプロモーション活動の一環であり、採算度外視の取り組みは長く続けることはできない。

「動きを止めて静かに過ごし、コロナウイルスという嵐が去るのを待つ」

それは動物としての生存本能としては間違っていないかもしれない。しかし、一方でこんな状況下でもできることがあるということを放棄した「思考停止」の選択だ。

例えば、サッカーであれば、公式戦を自粛したり、無観客試合をするという無条件降伏を受け入れるという選択だけでなく、今でもできること、今だからこそできることに挑戦する時ではないだろうか。

例えば、クラブや選手がデジタルツールを使って新たなファンサービス活動を行うことで、試合再開を待ち望むサポーターと一致団結したり、新規ファンの獲得をめざす。

そんな前向きな取り組みは、試合が予定されていた空いた時間を使えばできないことではないように思う。

そして、この機会に、今後同様の問題が起こった時に困らないような、新たな技術やシステムを導入するための試験期間として捉えてみても良い。

気がつけば、日本ではこういう状況の時、「ただ立ち止まり、嵐が過ぎ去り平常が戻るのを待つ」という行動が当たり前のようになりつつあるように感じるのは私だけではないはずだ。

人間の力ではどうしようもない不可抗力なことに無抵抗状態で、ただ時間が解決してくれるのを待つのでなく、困難に対峙し、未来につなげる思考を持って行動を起こす人が1人でも増えれば、私たちの生きる社会はもっとより良いものに進化していくのではないだろうか。

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