今こそ日本スポーツ界が「差別撲滅」を掲げる時だ!

2020.6.23

安彦考真

安彦考真「人生の先輩から20代に向けてのリアルアンサー」17

日本スポーツ界が「差別撲滅」を掲げる時

僕が考える「差別のない社会」とは?「差別のない社会に近づくための個々がすべき行動」とは?

【前編】

安彦考真

2020年6月23日

 

J&J、一部の美白製品を中止 「白い肌推奨」と批判(日経新聞)

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60604170Q0A620C2NNE000/

 

アメリカの医薬品・健康関連用品の大手企業であるジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)が一部の美白製品の販売中止を決めたという報道を目にした。

これほどの世界的大企業が、おそらく売上も大きかったであろう「美白」関連の製品の販売を中止するという大きな決定。

売上よりも企業としての理念やポリシーの表明を優先する行動を見て、僕は良い意味で大きな衝撃を受けた。

 

世界が「差別」に対して具体的なアクションを起こし始めている。

今後、僕たちサッカー選手も同様に具体的で明確なアクションを求められていくことになることは間違いない。

一時期のムーブメントで終わってしまうような表層的なアクションではなく、選手一人ひとりが本気で差別をなくすことに関心を寄せ、取り組んでいくことが必須となる時代はもう目前に迫っている。

今日はこのことについて、サッカー選手として、アスリートとして何ができるのか、何をすべきなのかについて、僕個人の考えを書いてみたいと思う。

コロナがあろうがなかろうが差別は昔から存在していた。

そして「差別はよくない」という認識もずっとあった。

けれど、差別がなくならないのは、いじめと同じで当事者の声だけが取り上げられ、個別案件として議論されることに終始する点だ。

だから、多くの人にとっては、どうしても「どこか遠くのかわいそうな出来事」という受け止め方で終わってしまい、結局は「他人事の領域」で止まってしまってばかりいるからだと僕は考える。

しかし、今回はアメリカでの白人警官による黒人差別の行為をきっかけに、世界中の人たちが「自分のこと」として差別行為を受け止め、差別反対の意思を表明し、行動に移し始めた。

世界が動き始めている。

これまで長く放置され続けた人種差別の問題が、今回は世界的な反対活動が拡大し続けている。何かが変わる可能性があると僕は感じている。

大坂なおみさん、「スポーツに政治を持ち込むな」ツイートに痛快な反論 『これは人権の問題です』(Yahoo!ニュースより)

https://news.yahoo.co.jp/articles/650a099f05863043edecfc043e1d38398457ceb0

 

僕らも外国に行けば差別を受ける。多くがアジア人としての差別だ。

ブラジルで暮らしていた時は、目の細さや肌の色でいつもからかわれていた。

残念ながら、その時の僕はその身体的特徴をからかう卑劣な行為に対して、何も言い返せないままでいた。

だからと言って、別の場面で今度は僕が誰かを身体的特徴をからかうことは今まで一度もしなかった。差別される側には立っても、差別する側に回ることは今間の人生で一度もなかったと断言できる。

僕は学生時代にいじめを受けた経験を持つ。いじめられることがどれだけ苦しかったかを僕は身をもって知っている。

僕はいじめに対しても、差別に対しても、いじめられたり、差別されたりした時の僕と同じような思いをする人を増やしたくないと思ってきた。

「ハーフの子供たちのために」八村塁のルーツへの誇りと自信。(Number.Web)

https://number.bunshun.jp/articles/-/838958

 

 

しかし、人は気がつくと悪気のない差別をしてしまうことがある。

例えば、これはサッカー界ではよくあることだが、外国国籍の選手で特にアフリカ系の選手の体臭に関するやりとりでのことだ。

普段の練習で着る練習用のユニフォームなどはクラブが管理する。

練習後はクラブが選手全員の使用後のユニフォームを回収し、クラブ側がまとめて洗って次回の練習時に洗濯後のユニフォームを用意してくれる。だから、ユニフォームは毎回ランダムに着用することになる。

選手は各自、練習前に練習用のユニフォームが置いてある棚から自分のサイズの練習着を取り、それを使用して練習に臨む。

 

ここで問題が起きる。

クラブ側が洗濯をしてくれてはいるが、前に使った選手の体臭が残っていることがある。特に日本人にとって外国人選手の体臭は慣れていないため、余計に気になってしまうことがある。

たまたま選んだユニフォームが強い匂いが残ったままのものだと、練習中もずっと匂いが気になってしまう。

また、それと同様なことは練習用ユニフォームの残り香の件だけでなく、例えばロッカールームで着替える時も、ミーティング中でも起こりうる。

密室で誰かの体臭の強い匂いが充満する時は、気にしないように心がけても、やはりずっと匂いが気になって仕方がない時がある。

 

外国人選手の体臭が特別酷いわけではないはずだ。

日本人でも体臭はあるだろう。けれど、日本人同士の場合、お互いの匂いに慣れていることもあるのか、ほとんど気になることはない。

しかし、外国人選手の場合、食事や環境によって日本人とは異なる体臭を持つ人が多いため、日本人にとってはどうしても違和感を持ってしまうのだろう。

 

ほとんどの日本人選手はその匂いに違和感を感じている。しかし、そのことについて、たいていの選手は黙って我慢するだけだ。

問題は、その我慢が結果的に差別に繋がるということだ。

 

そんな時、直接その選手に言わずに、本人がいない場所で別の人だけに話したりする。

その内容は蔑視やからかいが多く混じったものだ。

しかも、本人の前では澄ました顔をして「僕は差別主義者ではないですよ」という態度をとりつつ、本人のいないところでは嘲笑のネタにしたりする。

その結果、その悪い空気が徐々にチーム内に蔓延していく。そして、そのうちチーム内には取り返しのつかない濁った雰囲気で満ちていくことになる。

 

一見、誰も差別的行動はしていないようにも見える。

自分たちは最低限のラインで言動を留めている。そんな自分たちは「差別はよくない」と考え行動していると思い込んでいる。

しかし、残念ながらこれこそが「差別」の始まりなのだ。

自分たちは「差別はしていない」という勝手な言い分と、実際に起こしている差別を助長する言動とは大きな乖離がある。

たとえ相手に直接言わなくても、結果的に誰かを蔑視していることには変わりない。むしろ、黙って陰でからかうほうがたちが悪いとも言える。

 

ただし、こうやって「それは差別だ」と書くことは簡単だ。

けれど実際に、そんな場面に遭遇した時、多くの日本人は同じような言動をとるか、ダメだとわかっていても同調圧力に負けて、見て見ぬ振りをする人がほとんどではないだろうか。

僕から見れば、やり方や捉え方が陰湿なだけで、日本でもじゅうぶんに「差別的行為」は日常的に行われており、その多くが周囲を含めて無自覚で悪質なものだ。

 

これは自戒の念を込めていう。

僕自身も多くの人と同じように、匂いに対して違和感を持つことがある。特に、僕は匂いには敏感なほうなので余計につらい。

けれど、そのことについて陰で軽口を叩いたことは一度もない。

ただ、チームメイトがそれに近いことを本人のいない場所で陰口を叩いている時に、正々堂々と「それは差別だからやめたほうがいい」と進言することは今までなかなかできなかった。

そんな過去の自分を叱ってやりたいと今は思っている。

今の僕は違う。

今のY.S.C.C.横浜にはそんなことを言うチームメイトは1人もいないけれど、もし万が一そんな場面を見かけたらはっきり言う。

「それは良くないことだから、やめよう」と。

 

大人の集団であるプロサッカー選手でさえこのような状態になることがあるということは、小学校などの子どもの集まりの中でも酷いことが起きている可能性はじゅうぶんあるだろう。

僕のように同じ日本人でありながらいじめに遭ったのだから、もし両親ともかどちらか一方が外国人の子どもは、「無自覚差別集団」の中でどれほど辛い思いをしているか。

最近のハーフ選手たちが、積極的に「人種差別」に関する発言を繰り返しているのは、そんな闇が子どもの世界に多く潜んでいる証なのかもしれない。

楽天・オコエ 差別で苦しんだ半生…同じ境遇の人たちへエール「少しでも励みに」(デイリースポーツ)

https://www.daily.co.jp/baseball/2020/06/17/0013429560.shtml

 

では、僕たちはどうすればいいのか?

僕が考える「僕たちが今すべきこと」は「なんでも率直に話せる人間関係をつくる」ということだ。

体臭がきついことを陰でネタにするのではなく、相手にちゃんと伝えること。

そして、日本では体臭などに匂いに敏感な人が多いという情報を伝えて、状況を理解してもらい、改善策を一緒に考える。

もし、差別される可能性のある人がそばにいるなら、放置して陰でバカにするのではなく、誰もが生きやすい環境を一緒に作ることが僕たちの役割ではないかと思う。

 

そんなキレイゴトを書いても差別はすぐにはなくならないと言うかもしれない。

けれど、まずは感じたこと、思ったことを正直に伝えること、そして一緒になってそのことについて解決を試みること。多くの日本人にとって苦手なこの行為が一般化することで、少なくとも今よりは良い人間関係が満ちることは間違いないと僕は考えている。

 

言っていることはわかるけれど、しかし「でも、どうやって話せばいいかわからない」と思う人もいるだろう。

その点について、僕は「教養を身につける」ことを改善策として提案したい。

僕たちが生きるこの社会から差別をなくすためには、誰もがもっともっと教養を身につけること。その積み重ねが差別のない社会に近づくことができる近道だと僕は考える。

正しい教養が備わっていれば、人は感情で動かなくなる。

もちろんそれだけで完全に差別がなくなるわけではかもしれない。しかし、教養を身につけることによって誤った「偏見や先入観」に気づくことができ、「これは差別的か、そうではないか」の区別ができるようになる。

それだけでも、かなりの差別的行為は減少するはずだ。

(後編につづく)

後編→ http://www.livest.net/real/5424.html

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