感情の高まりを忘れてしまった大人たちへー「恋におちたシェイクスピア」

2018.8.8

musicalover

アラフォーからの舞台&ミュージカル鑑賞

劇団四季「恋におちたシェイクスピア」

2018年8月2日(木)

昔から好きだった。ちょくちょくは気になる作品は観に行っていた。けれど、映画と違い、舞台やミュージカル、特に人気の演目は前もってチケットを予約確保しておかなければ、上演が始まってからでは「観たい」と思いついても観れないことが多い「事前の入念な計画が必要となる」趣味だ。

アラフォーとなり、時間とお金をかけて何かに没頭したいと考えた時、改めて「しばらくは舞台やミュージカルを観まくるぞ!」と決意。時に開演の半年以上前、チケット発売初日にほとんどの作品のチケットを予約しまくった。そして2016年から最低週1回ペースで舞台やミュージカルを観まくる日々を続けている。

これは何の基礎知識もない、ヲタクでもない、舞台&ミュージカルのアラフォー初心者が綴った鑑賞日記だ。ここから学べることは1つ。「アラフォーになってからも趣味は始められる」ということ。

初心者だからこそ書ける見当違いかもしれない舞台&ミュージカル鑑賞記録。

劇団四季

「 恋におちたシェイクスピア」

2018年8月2日(木) 13時30分開演

劇場:自由劇場 座席:S1席 1階  13列

チケット代:19,840円(劇団四季idセンター)

 

CAST

ウィリアム・シェイクスピア:上川一哉

ヴァイオラ・ド・レセップス:山本紗衣

クリストファー・マーロウ:田邊真也

バーベッジ:阿久津陽一郎

ウェセックス:飯村和也

ヘンズロウ:神保幸由

エリザベス女王:中野今日子

ネッド・アレン:神永東吾

 

映画版「恋におちたシェイクスピア」

監督 ジョン・マッデン

脚本 トム・ストッパード、マーク・ノーマン

出演 グウィネス・パルトロー、ジョセフ・ファインズ、ジュディ・デンチ、ジェフリー・ラッシュ、コリン・ファースほか

音楽 スティーヴン・ウォーベック

撮影 リチャード・グレートレックス

自由劇場外観

劇団四季では珍しいストレートプレイ作品

映画版「恋におちたシェイクスピア」は、グウィネス・パルトローとジョセフ・ファインズ主演で1998年にアメリカで公開。第71回アカデミー作品賞、第56回ゴールデングローブ賞コメディ・ミュージカル部門作品賞を受賞したヒット作。

シェイクスピアの代表作「ロミオとジュリエット」の舞台初演までの制作過程をベースに、シェイクスピアと彼の作品のファンだった上流階級の娘ヴァイオラとの身分格差の中の許されざる恋の物語。

もう20年も昔の作品だが、実在の人物が歴史的名作を創作する過程で、その名作の軸となる許されざる恋に落ちていくストーリー展開が秀逸で、今でも印象深い映画だ。

そんな映画を劇団四季が上演するということで、半年以上前からチケットをゲット。8月2日、満を持しての舞台鑑賞となった。

この舞台、知らないまま観始めたが、劇団四季には珍しいストレートプレイで、劇団四季的な歌唱シーンやダンスシーンはほぼ無し。これから観にいく人はまずはこのことを念頭に見始めるべし。

さらに演劇で最重要となるオープニングシーンだが、この舞台は映画版をかなり忠実に再現しているのだが、予備知識のない人にとってはいきなりオープニングから???な状態で流れから取り残される危険性がある。できれば先に映画を観ておくか、もしくはオープニングシーンはあまり気にせず軽く流すくらいで観るのが良い。でないと、最初の掴みで頭の中が???のまま、しばらく主役たちが登場しない場面を見続けることになるので、舞台鑑賞の最大の敵である初っ端の睡魔に負けてしまう危険性が高い。

映画版をリスペクトしつつ随所に盛り込まれた「劇団四季らしさ」

シェイクスピア役の上川一哉さん、トマス・ケント(男装時の偽名)&ヴァイオラ役の山本紗衣さんを始め、さすがは劇団四季団員!誰もが明瞭な滑舌と通る発声で、セリフを聞き逃すことはなく、非常に観やすくストーリーに入り込みやすい。

映画版のグウィネス・パルトローの男装が見事だったぶん、山本さんの男装が可愛さが残り過ぎていて、正直、男には見えないところはご愛嬌。映画版をリスペクトし、できるだけ映画版を忠実に再現しようという想いが全体を通して感じられた。

映画版でシェイクスピアとヴァイオラが結ばれるシーンで、よく見る着物の帯をクルクル回った解いていくような動きのような、男装用の胸に巻いたさらしをクルクル回って解いていくシーンも忠実に舞台上で再現されていた。劇団四季らしからぬ肌の露出で、「どこまで脱ぐんだろう……」とちょっとドキドキさせられた(笑)。

そんな中で、映画版をよりブラッシュアップしているなと感じる部分もあり、正直、映画よりもストーリーはわかりやすくなっていて、登場人物の言動に感情移入しやすいアレンジも施されていた。そのあたりは単なる映画の模倣ではなく、劇団四季として作品の演出を練り、公演をより良いものするぞという想いがヒシヒシと感じられた。

例えば、脚本家同士のライバルでもあり、良き友人もあるシェイクスピアとマーロウの関係性について。

映画でも舞台でも、マーロウは途中で死んでしまうのだが、その原因が自分の嘘にあると勘違いしたシェイクスピアは深く悲しみ、マーロウを殺した(と勘違いした)ウェセックス卿と決闘をするという流れはともに共通だ。

しかし、映画版では正直、シェイクスピアとマーロウの友情の深さがわかりづらく、マーロウの死を知って感情を露わにするシェイクスピアの言動がピンとこなかったが、劇団四季版ではそのあたりをしっかりと補足するシーンを描いて、2人の男の友情の強さを観客に示していた。

例えば、オープニングに続くシーンで、創作に悩むシェイクスピアをライバルであり同業者でもあるマーロウが発想を助ける場面。また、シェイクスピアが夜中にヴァイオラのもとを訪れて口説くシーン(「ロミオとジュリエット」の名場面と同様のシチュエーション)でもマーロウが助け舟を出すなど、若きシェイクスピアの未完成な部分をマーロウが優しく見守るという様子が伺えるシナリオになっていた。

「好きなこと」を捨て「好きな人」を選んだ先にある人生

またセリフの面でも、映画版にはなかったより印象深いセリフも少なくなかった。

例えば、シェイクスピアが身分格差を超えて結婚しようとヴァイオラに駆け落ちを迫る場面で、ウェセックス卿との結婚を決意したヴァイオラがシェイクスピアを説得するセリフ。

「私はお金がなくても大丈夫でしょう。でもあなたは創作無しでは生きていけない」

「私たちは残りの人生の20年、老いるまで愛が持つでしょう。けれど、その間にあなたが書き残すはずだった作品や、その作品を楽しむはずだった人たちを、私は犠牲にすることはできない」

ヴァイオラのこれらのセリフは、愛に溺れたシェイクスピアを思い止まらせるにじゅうぶんな素晴らしいセリフだった。

一流クリエイターが衝動的な恋愛にのめり込んだと思ったら、すぐに別のことに熱中してしまい、相手が翻弄されるというシーンは、古今東西数多くの作品の中に登場する定番のシーンだ。

シェイクスピアも恋愛感情に対して深くのめり込むぶん、彼の演劇作品を生み出す創作活動への思いも、時にそんな深い恋愛感情を忘れてしまうくらい底深くなることを、聡明なヴァイオラは冷静に見抜いていた。

最近観たミュージカルでも、例えば「モーツァルト!」でも、コンスタンツェと「僕をわかってくれる人はこの人しかいない!」と恋愛結婚するも、創作活動にのめり込むと、彼女を邪険に扱ってコンスタンェを悲しませるというシーンが何度も出てくる。

「モーツァルト!」が結果的に主要な登場人物の誰もが幸せで終われなかったのと違い、この「恋に落ちたシェイクスピア」では、ヴァイオラのこの冷静な判断のおかげでみんなが救われる。シェイクスピアは「十二夜」という「ロミオとジュリエット」の次に手がけた作品を、ヴァイオラとの恋愛と別れをモチーフに創作するなど、後世に残る名作を数々書き残した。

そんな他の作品と比べるまでもなく、人生において、特に若い時期にのめり込んだ恋愛は、ハッピーな結果に結びつかないこともあるということを、ヴァイオラの名セリフが教訓として教えてくれているような気がした。

「好きな人」と「好きなこと」を天秤にかけた時、最終的には「好きなこと」を選んでしまうのが人間の性であり、それがクリエイター気質の人であればなおさらそうだと言える。その時、相手となる女性は悲劇のヒロインとなってしまう。ヴァイオラ自身は相手のことを思いつつ、自身の起こりうる悲劇を予見して、苦渋の選択をした。このことは特に若い女性にとって大きな教訓となるだろう。

また逆の立場からの見方をすれば、才能豊かなクリエイターが自分の将来や創作の場を捨てて女性を選ぶことで、その後、たとえその女性に対してにお愛が消えなくても(いやむしろ愛が消えないほど)、そのクリエイターはずっと苦悩し続けるだろう。「愛と夢の両立は難しい」という忠告をクリエイター側の人間にも訴えかけているという見方もできる。

青春時代に観た名作映画を、20年後に改めて観た時に感じる何か

もう1つ、映画版でもあったセリフで、舞台版で印象的に感じたセリフが、クライマックスシーンのこのセリフ。

「男の役を演じることは大変です。そのことは誰より私は知っているつもりです」

当時、舞台に女性が上がることは禁止されていた。そんな中、「ロミオとジュリエット」の初演舞台で、ヴァイオラは男装をしてのロミオ役でなく、女性の姿のままジュリエットを演じた。

この行為を見た風紀を取り締まる「典局長」が、舞台終了直後に「エリザベス女王の名の下に」と劇場閉鎖を言い渡すが、この舞台をお忍びで鑑賞していたエリザベス女王本人が登場し、大岡裁判を下す場面で、ヴァイオラに言ったのがこのセリフだ。

エリザベス女王は、男装してまで舞台俳優となりたかったヴァイオラの思いを汲み、「ヴァイオラは男だ」と典局長に言い、舞台閉鎖を撤回させる。

その時、女王はヴァイオラに向かって、先ほどのセリフをボソッと伝えるのだが、ここに女性として一国の王として国を統治しなくてはいけない女王の苦悩がふと垣間見える。

この作品の中で常に強い女として描かれていた女王だが、このセリフでさりげなく彼女の弱い部分が露呈することで、作品の中の女王が一気に人間臭くなって魅力を帯びる、素晴らしい名セリフだ。

アラフォー世代にとって、映画「恋に落ちたシェイクスピア」は20年前、当時の恋人とデートで観た思い出深い映画だったりするだろう。もしかしたら、その時一緒に観た人と今、結婚している人もいるかもしれない。

当時、10代や20代前半でこの映画を観た時に感じたことと、今、アラフォーとなってから観た時に感じる思いはまったく違うものになるに違いない。

これまでの人生の約半分、20年という歳月は、あなたをどのように変化させたのだろうか? そしてあなたの周囲はどのように変化したのだろうか?

「好きな人」と「好きなこと」の天秤に悩むタイミングは、若い時期の方が圧倒的に多いだろう。

今のあなたの人生は、20年前のほんの些細な選択から繋がっていて、この先も日々の小さな選択の連続の中に繋がっていくのだろう。

最近観た舞台が「レインマン」や「恋に落ちたシェイクスピア」といった、アラフォー世代にとって青春時代の1ページのような懐かしい映画を舞台化した作品というのは、果たして本当に偶然なのだろうか?