他人の評価しか信じられなくなってしまった人たち

2018.9.21

livest!編集部

人生を楽しむ「趣味を広げる」

シス・カンパニー公演「出口なし」

2018年9月20日(木)
@新国立劇場 小劇場

 

<Cast>

大竹しのぶ、多部未華子、段田安則

<Creative>

作:ジャン=ポール・サルトル
上演台本・演出:小川絵梨子
美術:松井るみ
照明:原田保
衣装:前田文子
音響:加藤温
舞台監督: 瀬﨑将孝
プロデューサー:北村明子
企画・製作:シス・カンパニー

 

<同作品について>

※公式サイトより

ナチス占領下の1944年5月27日、フランス・パリの「テアトル・ドゥ・ヴィユ・コロンビエ」にて初演。実存主義を象徴する戯曲。原題のフランス語「HUIS」は「扉・戸口」の意味。CLOSは「閉ざされた、閉まった」の意で、HUIS CLOSは直訳では「閉じた扉」となる。これはフランスの法律用語では「非公開審理」「傍聴禁止」という意味で使われている。
パリ初演は大反響を呼び、これをアメリカの小説家・翻訳家・作曲家ポール・ボウルズが英語に翻案。1946年11月~12月には米国ブロードウェイ・ビルトモア劇場で初演され、「これぞ現代演劇。必ず観るべき作品」と評価された。

 

<サルトルとは>

※公式サイトより

ジャン=ポール・サルトル Jean Paul Sartre (1905-1980)
パリ生まれ。2歳のとき父を亡くし、ブルジョア知識階級である母方のドイツ系フランス人の祖父に養育される。パリの名門高等学校(リセ)アンリ4世校を卒業。1929年に1級教員資格アグレガシオンに首席で合格。
合格後、各地の高等学校(リセ)の教師となり哲学を教えながら、その間1933~34年にかけてベルリンに留学。フッサールやハイデガーを学び、意識構造の現象学的解明に努めた。その後、第二次世界大戦に召集され、ドイツ軍の捕虜となるが、偽の障害者証明書で脱出し、パリに戻ったという。
実存主義を唱えて、小説「嘔吐」「壁」、戯曲「出口なし」「汚れた手」などを発表。近代人の不安と虚無を描いた。
評論にも「存在と無」「実存主義とヒューマニズム」「ボードレール」等がある。その活動は多方面にわたり、その人生観や文学観は戦後の人の心をとらえて注目された。1964年ノーベル文学賞を贈られたが辞退した。

他人の評価の中でしか自分の存在を感じられなくなってしまった人たち

秋雨の降る肌寒い平日の午後、新国立劇場に向かうため初台の駅を出る。
新国立劇場はつい先週、「シティ・オブ・エンジェルズ」を鑑賞しに来たばかりだが、今回の舞台は小劇場。
小劇場といえば、蒼井優と生瀬勝久出演の「アンチゴーヌ」で小劇場の舞台鑑賞の魅力を強く感じて以来で、今回も実績も申し分ない出演者の舞台ということで、楽しみに思いながら小劇場に入る。
小劇場は毎回客席と舞台の構成がバラエティに富んでいるが、今回の舞台は舞台と観客席が正対するオーソドックスな作り。センターブロックの中央列、最端の席ということで、細かい表情は見えないぶん、舞台全体が見易い席での鑑賞となった。

観客の構成はほぼご年配、特に女性が多い。男はご年配を除くとほぼ皆無。ある意味、アイドル的人気の出演者がいない平日の舞台鑑賞のオーソドックスな構成比とも言える。
舞台は約1時間20分で途中の休憩はなし。カーテンコールもさっぱりしていて、さっと始まってさっと終わる感じ。
ただ、3人の出演者はほぼ出ずっぱりなので、かなり心身ともにハードな舞台だろう。演じ切った後に何度も出たり入ったりして観客席に挨拶する気力がなくなっても仕方ない。

「出口なし」は哲学者サルトル作の戯曲で、初演以来、世界中で何度も公演が繰り返されている作品。
ストーリーはシンプルで意味不明な点が少ない内容だが、哲学者が原作者らしい隠喩に富んだ内容で、見終わった後は爽快感より内省的な気持ちにさせる作品。
死後の世界で偶然出会った見ず知らずの3人が、自身の死因や生前の環境などを告白し合いながら、自身の存在意義を確かめ合うように会話を交錯させる。
出会った部屋は出入り禁止で鏡もなく、自身の顔や姿を見ることができない。不安を取り除きたい3人はそれぞれ表面的な会話で認め合い安心感を得ようとするが、時に本質を突かれ、苛立ち罵り合う。時に言葉で自己正当化しようとし、時に肌を触れ合わせて存在理由を再確認しようとする3人。しかし、そこは死後の世界。寝る必要も食事をする必要もなく、時間は無限に存在する。3人のやりとりは終わりなき堂々巡りを繰り返す。
3人は死因を正当化し、生前の人間関係や自身の存在価値を美化しようとする。しかし、その嘘は簡単に見破られ、3人の本性が徐々に剥き出しになっていく。

そこは鏡がない世界。舞台上では、自身の顔が見れないというやりとりが何度も繰り返される。人は自分のことを客観的に理解できず、常に他社の評価のもと自己の価値を計ろうとする。そして自己の評価を高く保ちたいため、時に他者に媚び、時に他者に攻撃的になる。
この作品は「死後の世界」を舞台にしているが、滑稽とも言える3人の醜いやりとりに、どこか現実の世界と重ね合わせてしまう。SNSで飾り付けた自分の生活を見せびらそうとしたり、高尚な意見を投稿しようとしたりする一方で、「いいね!」の数やコメント欄など自身のSNSへの他者の反応を極端に気にしたりする。
SNSは素晴らしいコミュニケーションツールではあるけれど、本来自己完結すべき事柄までインターネットを通じて全世界に発信し続けるという強迫観念に取り憑かれさせる。
この舞台の登場人物たちは、自分が生きていた意味を正当化したいがために、自分の生き様や本心を捨ててまで他者の評価を得ようと醜く争う。サルトルがこの作品を創作したのは1944年。第二次世界大戦の真っ只中。その時代の人間の醜い部分を隠喩した作品とも言えるし、現代のSNSを代表とした過剰な他者評価を求める時代を予見した作品とも取れる。
「私たちが生きていると思っているこの世界は、本当に現実世界か、それとも……」

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