第2回「究極のピンチの場面こそ成長のチャンス」

2025.3.2

伊部塁 「人生再構成」BLUEPRINT代表

人生最大の試練は今でも鮮明に覚えている。

 

その試練を経験したおかげで、その後の企画制作プロデューサーとしての活動の幅が広がったのは間違いない。

前回、取り上げたプロジェクトチームに、最後の最後に滑り込みで参加できたのは、その試練のおかげなのだから。

 

1998年。

サッカー・ワールドカップ・フランス大会で日本代表としてプレーした中田英寿選手は、そのシーズンからイタリア・セリエAのペルージャに移籍。

開幕戦のユベントス戦でいきなり2得点を挙げて以降、チームの中心として活躍し、日本中が中田英寿フィーバーに沸いた。

 

国民的ヒーローを独占密着取材

翌1999年。

大活躍だったシーズンを終えた中田英寿選手は、オフの夏の期間を利用して、親しい前園真聖選手とともに自主トレを行った。

かねてから中田英寿選手の本を作る企画があったが、中田英寿選手が多忙なためなかなか実現しなかった。

そこで出版社と中田英寿選手の所属するマネジメント会社とが協議し、この自主トレ期間中に取材や撮影を行い、本を制作するという運びになった。

 

飛ぶ鳥を落とす勢いの中田英寿選手の個人活動でもあり、厳戒態勢の中での合宿。

日本を代表する2名の選手とともに、取材チームも同じコンドミニアムで合宿し、自分たちで作った食事をみんなで食べ、練習も手伝いながら、取材をするというウルトラC級の超難度プランだった。

中田英寿選手と前園真聖選手、そしてライターやカメラマンら取材チームは、すでに面識があり、和気藹々とした中、本制作の責任者として「初めまして」状態で合宿地に放り込まれた。

しかも、取材チームは年上の熟練ばかり。10歳以上離れたベテランの方々を、一番年下で、一番下っ端の自分が束ね、本を作らなければならないのはとてつもないプレッシャーだった。

 

取材できる時間は2週間。

この合宿期間の逃すと、中田英寿選手はイタリアに戻ってチームの活動に参加するため、もう追加取材のチャンスは無い。

 

しかも、この2週間は取材のためにあるのではなく、あくまで次のシーズンもセリエAで活躍するための肉体を鍛える自主トレのための期間であり、取材はあくまで二の次。

灼熱の炎天下の下、厳しいフィジカルトレーニングを1日中行って疲れ切った選手に、少しインタビュー時間をもらうことさえ憚れる雰囲気だった。

この2週間はほぼ睡眠をとった記憶がない。

唯一、下っ端ということで全員の洗濯を任され、コインランドリーが回っている短い時間ウトウトできたくらい。

真夏の南国でのフィジカルトレーニング中心の自主トレということで、練習をサポートしているだけでも体力の消耗は激しかった。

 

そんな中、中田英寿選手の本音を引き出し、本としての体裁を整えるための取材内容を確保することは非常に厳しいミッションだった。

けれど、2週間ずっと彼の自主トレーニングの様子を間近で見続けることができたこと。

そして、世界で戦うトップ・アスリートと直接向き合い、一対一で取材するという経験は、僕自身にとってかけがえのない財産となった。

 

地獄の時間は至福の時でもあった

一緒にいればいるほど、彼の魅力をたくさん見つけた。

そんな彼の魅力を、本を通じて多くの人に届けたい……。

 

その気持ちがモチベーションとなり、トレーニング後のインタビューの予定が疲労のためにキャンセルになっても、彼にしか見えない世界を言葉した禅問答のような受け答えに四苦八苦しても、睡眠不足で倒れそうになっても、最後までやり遂げることができた。

地獄のような2週間であり、企画制作のプロとしてはこれ以上ない至福の時間だった。

本は爆発的に売れ、即完売となった。

髪型を真似する人が続出するほどの大人気で、しかも、なかなか取材に応じない中田英寿選手の独占取材による本が売れないはずはない。

 

きっとどんな内容でも売れただろう。

けれど、中田英寿選手がせっかく貴重な時間を割いてくれたこと。そして、日本中の中田英寿選手ファンに満足してもらいたい。

その気持ちで、自主トレ中も、その後の編集も全身全霊をかけて取り組んだ。

 

試練が運んできた千載一遇のチャンス

講談社から声がかかったのは、その本が出た直後のことだった。

「ワールドカップのメディアをつくっているが、中田英寿選手と対峙できる編集者を探している」

 

中田英寿選手との2週間は、心身の限界を超える試練だったが、その困難を乗り越えた先に、初の自国開催となるワールドカップの公式メディア・チームに参加するチャンスが待っていた。

僕はこの千載一遇のチャンスを掴み、2002年の日韓ワールドカップを公式メディアの一員として迎えることとなった。

 

忘れられない後日談

後日、お礼を兼ねてイタリア・ペルージャを訪れた。

数ヶ月ぶりに会った中田英寿選手は、僕の顔を見ると、開口一番こう言った。

 

「あの本、イマイチだったね」

その時の顔はいたずらっ子のような笑いを口元に残していた。

 

「いつか、彼が認めてもらえるような本を作りたい」

それがその後の自分の企画制作プロデュース活動の原動力になり続けた。

今回の教訓

多くの人がチャンスが訪れるのを待っている。

けれど、そのチャンスが大きいほど、そのチャンスの前後に大きな試練が伴うことが少なくない。

 

ただラッキーだけを得られることって、じつはほとんどないのではないか?

もしくは、それはそれほど大したことのないラッキーなのではないか?

 

人は試練を目の前にすると、足がすくみ、逃げ道を探してしまう。

けれど、その試練の中にこそ、その試練の壁の向こう側にこそ、チャンスが潜んでいる。

 

最初から、試練の中やその先にチャンスが見えないことも多い。

多くの人にとって、試練はただの試練にしか見えないので、どうしても立ち止まるか、避ける選択をしてしまいがちになる。

 

それは当たり前のこと。

でも、当たり前のことを選択し続ければ、当たり前ではない千載一遇のチャンスに出会うことは難しくなる。

試練を飲み込む覚悟がなければ、自分を一変させるようなチャンスは掴めない。

 

その試練にどのように立ち向かえばいいか。

その試練をどのようにしてチャンスに変えればいいか。

僕が経験して得たことを、今後じっくり書いていきたいと思っている。