フリーランスって、サラリーマンと違い、好きな時間に好きなことができることが大きな魅力。
毎日定時に満員電車に乗る必要もないし、ランチタイムは混雑時間を避けながら、人気店で悠々と食べることができる。
スポーツジムだって、始業時間前や就業時間後、週末の混雑を避け、平日の真っ昼間に行くことができる。
フリーランスは時間に縛られない。
フリーランスは、自分で好きな時間を選べる。
だからこそ、平日の昼間の中でも、同じ器具を使う特定のあの人とバッティングしないよう、さらに細かく時間帯を選んでスポーツジムに行くことができる。
そうやって
『この時間はあの器具を毎日使うおじさんがいるから避けよう』
『12時前は昼ごはんを家で食べようとするおじいさんたちでロッカーが混むから避けよう』
と思っているうちに、知らず知らずのうちに、どんどん自分がスポーツジムに行く時間が決まっていく。
でも、そこまでして、ストレスがないように綿密にスケジューリングしているにもかかわらず、いつもの時間帯より遅れて器具を使うおじいさんがいたりして、それがストレスを生んだりすることも少なくない。
そして、他人のせいで、自分のスケジューリングをさらに細かく微調整していくことが、さらなるストレスになっていく……。
あれっ、フリーランスって、自由なんじゃなかったっけ?
ある日、ふと気づく。
自分の好きな時間に好きなことができるという「自由」を与えられているにもかかわらず、その中で縁もゆかりもない他人の都合に合わせて、自ら進んで「不自由」になっている自分がいることに。
自分、全然「自由」に生きていないな、と。
でも、これって、もしかしてサラリーマンの人にも当てはまったりしないだろうか。
朝は何時に家を出ると、徒歩何分で最寄駅に着き、何時何分発の電車に乗る。
ホームで電車を待つのは何号車の何番目の扉の前。
下車する人を見送ったら、向こう側の出入り口付近の隅に立つ。
そうすると、自分が降りる駅で改札向かう階段の目の前になる。
何年も毎朝続けている通勤で磨き上げた最適化マイルール。
合理的で効率的な行動パターン。
しかし、毎朝のように誰かに邪魔されて、朝からストレスが溜まっていく。
家族のせいで家を出る時間が少し遅れた。
急いで1階まで降りたいのマンションのエレベーターで、子ども連れのファミリーがのんびり乗ってきた。
慌てて歩くも、目の前に横並びでダラダラ歩く学生たちや、スマホを凝視して道を塞ぐ若者に行く手を阻まれる。
自分が決めているホームの定位置に、すでに何人もの人が待っている。
はるか遠い駅でのトラブルのせいで、いつもの電車が定刻から遅れてやって来る。
電車の中のベストポジションに、旅行客のスーツケースが置いてあって立てない。
合理化・効率化を極めようとするほど、常にわずかな誤差が生まれ、ストレスは溜まっていく。
そんな時、ふと思い出す。
朝、追い抜いた横並びでダラダラ歩く学生たちが、とても楽しそうだったことを。
彼ら彼女たちは、自分が乗る電車の時間も気にせず、今、友だちと歩くこの時間を純粋に楽しんでいる。
翻って、自分は?
合理化・効率化を極めて、「賢い自分」を気取っているが、その意識は常に先回りで、「今」を全然生きていない。
「今」を全然楽しんでいない。
「自由」に生きる、「自分らしく」生きるって、サラリーマンかフリーランスかに関係なく、自分の考え方次第なのではないか。
4月がスタートして、新しい生活パターンを模索している人たちは、合理的・効率的を意識し過ぎることのしっぺ返しを、ぜひ頭の片隅に置いておいてもらいたい。