第5回「未知のジャンルに飛び込むことがアイデアの源泉となる」

2025.3.5

伊部塁 「人生再構成」BLUEPRINT代表

2002年に自国で開催された日韓ワールドカップは、日本にさまざまな影響を与えたビッグ・イベントとなった。

出場国が事前合宿地に選んだ町が注目され、スポーツを通じた素晴らしい国際交流が日本中で起こった。

日本代表や日本代表選手に対する熱狂的な盛り上がりはもちろん、来日した外国人選手にも大きな注目が集まり、ベッカム選手やイルハン選手などはスーパースターとして連日メディアを賑わした。

そんな中、個人的にもっとも嬉しかった「変化」は、日本でフットサル・ブームが巻き起こったことだった。

日韓ワールドカップで世界トップ選手たちのプレーを見た多くの人たちが、「自分もサッカーをやりたい!」「ボールを蹴りたい!」と観るだけでなく、実際にプレーしたいという気持ちを持った。

そんな中、初心者がいきなりサッカーするのはハードルが高いということで、気軽にサッカーを楽しめるフットサルが注目され、ワールドカップを契機に大人気となったのだ。

 

サッカー人気から生まれたフットサルブーム

当時のルールは現在と少し異なり、ハードな接触プレーは禁止されていたので、子どもや女性、サッカー初心者が気軽に安全に楽しめた。

仕事終わりにカラオケに行くのではなく、フットサルに行くという人が増えたほど、フットサルは身近な遊びとなった。

実際は、それ以前からセミプロチーム同士のフットサルのリーグ戦も日本中で盛んに行われていた。

当時はあまり注目されていなかったが、フットサルのワールドカップ(当時は世界選手権)も開催されていた。

リーグ戦で活躍していた選手たちがフットサル日本代表として、サッカー日本代表と同じユニフォームを着て、世界と戦っていた。

 

日本フットサル創世記のレジェントたちとの交流

僕は縁あって、今のように「Fリーグ」としてプロ化される前、まだ注目される以前のフットサル・リーグから関わり、仕事をさせてもらっていた。

 

当時のフットサル日本代表のエースとして活躍していた相根澄選手や、現フットサル日本代表監督の小暮賢一郎選手らと親しくさせてもらい、彼らが海外クラブでプレーしていた時は、イタリアやスペインまで行き、現地で彼らと語り合ったりさせてもらっていた。

 

「フットサル」との出会いが、僕のその後の企画制作プロデューサーとしての活動の幅を大きく広げてくれた。

当時から交流してくれた選手たちや日本フットサルの創設メンバーの皆さんには、感謝しても仕切れない。

今回の教訓

当時はほとんどの人が注目していなかったフットサル。

一般的には「知らない」人の方が多かったかもしれない。

そんな競技に早くから出会い、創設メンバーと交流させていただいたことは、その後の自分の企画制作プロデュースの大きな武器となった。

 

もちろん最初からそれを狙っていた訳では全くなかった。

ただ純粋に「この競技は面白い!」と直感的に思い、自分から積極的に参加していっただけだった。

 

けれど、一般的には知られていなかった段階から関わっていたという経験が、その後のアイデアや企画に大いに役立ってくれた。

その後、芸能人女子フットサルや高校生フットサルといった新規プロジェクトをスタートする時、何よりのアドバンテージとなったし、大きな仕事を任せてもらえる根拠にもなった。

 

アイデアや企画は、ルーティンな日常を過ごしているだけでなく、普段とは違う環境や、未知の世界に思い切って飛び込むことで、新たな発想が生まれていく。

そして、それはすでに大きな産業になっているジャンルよりも、まだほとんどの人が知らない、その魅力に気づいていないジャンルの方がチャンスとなる可能性は大きくなる。

 

最初から好き嫌いで篩い分けせず、できるだけ多くのものに触れ、その中に自分の好奇心を刺激するものを見つけるアンテナを張っておく。

その意識の積み重ねが、アイデアや企画の発想に大きく役立つ。

 

次回は、フットサルとの出会いから始まった、ビッグ・プロジェクトについて振り返りたい。