4月1日。新しい年度のスタートの日に新元号と世代間の価値観について考えた
人生を哲学的に見つめ、日々考えたことや感じたこと、学び、体験についての思いをまとめ、書き留める「人生哲学研究家」のブログ。
編集長ブログ
2019年4月1日
高校野球と新元号
今日は2019年4月1日。新しい年度の始まりというだけでなく、31年目に入った平成に変わる新しい元号が発表される日だ。日本人にとって例年以上に新しい始まりを感じさせる特別な一日となる。
昭和生まれからすれば3つ目の元号だ。幼い頃は明治と大正を経験した人は教科書の中の人のような近くて遠い存在に感じていたが、気がつけば自分自身も3つ目の元号を生きることとなる。改めて時の流れの早さを感じてしまう。
前回の改元は高校の頃、冬休みの部活の合宿中だった記憶がある。日本中が喪に服す厳かな雰囲気の印象が強過ぎて、その頃は昭和が終わることも平成というもそれほど深く捉えてはいなかった。
それは翌日からいきなり元号が変わったことのインパクトが強かったこともあるだろう。今回の改元は公布から施行まで猶予がある。世の中もなんとなく前向きなバトンタッチのような風潮で、今日の新元号発表も世の中にはちょっとしたイベント感もあるように感じる。
そんな前回の改元を知らない平成生まれの高校球児たちが今、甲子園で紫紺の優勝旗を目指して戦っている。
春の選抜高等学校野球大会、夏の全国高等学校野球選手権大会ともに全試合が公共放送で生中継されるなど、高校野球は毎年春休みと夏休みの時期の恒例行事化した国民的イベントのような存在として定着している。
日本人にとって野球という競技を超えた欠かせぬ存在として認知されている高校野球。だからこそ大会中に起こるさまざまな出来事が大きな話題となり、国民の注目を集めることも多い。
今大会も「サイン盗み疑惑」や試合後の「対戦相手との挨拶の態度」についてなど、勝敗やプレーについて以外の要素も大きな話題となっている。
大相撲と並んで「礼儀」について議論を巻き起こすという現象が高校野球は顕著だ。これは大相撲や高校野球が長く親しまれ続けた伝統ある国民的関心事だからこそでもあるが、ことさら「礼儀」を重んじる精神性を継承している(ように捉えられている)競技だからだとも言えるだろう。
「サインを盗む」行為について大会の主催団体からの注意勧告はなされているが、完全に取り締まることは不可能だ。試合後の対戦相手との握手についても、主催団体から試合後に迅速な行動を求められていたからと言われれば、すべきだったか素早く退場すべきたったかのジャッジは難しい。
他にも学校や地元の応援団による応援方法や連帯責任の是非についてだけでなく、エースの連投や塁上の交錯プレー、さらには敬遠や隠し球などのルール上認められているプレーについてまで、メディアが問題として取り上げるたびに立場や経験によってさまざまな意見が出ては国民的論争が白熱する。
これらの議論が盛り上がる理由について、誰もが納得する明確な解決手段がないということもある。しかし、それと同じくらい世代間の価値観や倫理観のぶつかり合いがあるように思える。
高校野球という公共放送で全試合が生中継されるほどの国民的行事だからこそ、そこに老若男女の価値観がぶつかり合い、さまざまな意見が交わされ、誰もが納得する着地点を見つけることなく議題は毎年のように繰り返されていく。
子どもの頃に長時間の苦しい練習に耐えた経験がある人の中には、合理的で効率重視の練習はどこか頼りないものに感じる人もいるだろう。敬遠やファールで粘るプレーについて「ルールで認められている」と捉える人もいる一方で「高校生らしくない」と捉える人もいる。数名の軽率な行動に対してチーム単位での厳格な責任を求める人もいる一方で「連帯責任」という考えが古いと捉える人もいる。
もちろん世代ごとに明確な線が引ける訳ではないが、長い伝統を持つ国民的行事だからこそ高校野球に関して起こった議論に世代間の価値観の変遷が垣間見えるように感じる。
飛鳥時代の「大化」から数えて248番目となる新元号が発表される今日。
その歴史とは比べるもないが、それでも1915年から続く夏の甲子園とともに1924年に始まった春の選抜大会も長い歴史を経て、数日後に91番目の優勝校が決定する。
そんな積み重ねの中で熟成された土壌の上に、政治や宗教についてあまり自分の意見を明確にしない日本国民が自身の倫理観や価値観、道徳観をもとに議論しやすい場が生まれているようにも思えてならない。
勝った負けたという結果抜きに、一方的なファン目線も排除した上で、競技を超えた価値観の意見交換が生まれる高校野球は明日からベスト4による準決勝が始まる。
平成最後の高校野球はどんな戦いを経てどんな勝者が生まれるだろう。そして残り3試合を通じてどんな国民的議論が誕生するだろう。興味は尽きない。