【哲学】挑戦し続ける人のための哲学的ヒント
「挑戦者たちの哲学」
挑戦し続ける人生のための哲学的ヒント
「挑戦」は常に不安や困難がつきまとう。
それがたった1人での挑戦ならなおさら、仲間との挑戦であっても未知の道を突き進むのは強い信念と熱い情熱が欠かせない。
若い時でも、40代でも、アスリートでもアーティストでも、実際に挑戦の第一歩を踏み出し、恐る恐る歩むその道のりは不安ばかり。そして予想外の困難が次々と襲ってくる。
そんな時、強い信念と熱い情熱を保ち続けるために、【哲学】から学べることは少なくない。
挑戦し続ける人たちのために、livest!流「哲学」を綴っていく。
ジャン=ポール・サルトル
「〜でない」という生き方を選ぶ
サルトルは哲学者としてだけでなく、作家として思想家として現代フランスを代表する人物。ノーベル賞を初めて辞退した人としても知られている。
大きな影響力を世界に発信した歴史上の人物のイメージが強いが、亡くなったのは1980年という私たちにとってじつは身近な存在でもある。
代表的な哲学著作は『存在と無』。1943年という第二次大戦中に発表された著作ということで、その時代背景を念頭に入れつつサルトルのメッセージを読み解くことがポイントだ。
哲学を学び始めて気づいたこと。
それは、哲学書に限らず小説などのさまざまな歴史的著作やクラシック音楽など「古典」と呼ばれ長く受け継がれてきた名作を読んだり聴いたりする時の心構えについて。
それは、それらの作品が生み出された時代背景や作者の置かれた環境を、最初にしっかりと理解した上で学ばなければ、本当の意味で理解できないということだ。
ともすれば私たちが生きている現代の社会情勢や常識、科学の進歩などを無意識に前提にして、古典小説や哲学書などを読み始めてしまう。しかし、それでは作者が伝えたかった真のメッセージを正しく受け取ることはなかなかできない。
歴史の荒波を乗り越え、時に数百年という長い年月を経て現代にまで読み継がれ続けてきた歴史的名作は、間違いなくすべて作者の強いメッセージが込められている。
いつの時代にも数多流通する、ただ単に「読んで面白い」というエンタテインメント作品と古典と呼ばれて生き残っている歴史的名作とは、その点で一線を画す。
もちろんエンタテインメント作品にメッセージ性が無いという意味ではまったくない。おそらく村上春樹さんの著作やジブリ映画などは、私たちが死んだ後も後世の人たちに「古典」として受け継がれていくだろう。
哲学書というジャンルに限っていえば、歴史的名著と呼ばれるもの中にも、現代を生きる私たちにとっては意味不明だったり、古くさく感じる点が少なからずあることは間違いない。
その結果、「古い哲学書を読んでも面白くない、意味がない」とすぐに投げ出してしまうこともあるはずだ。
しかし、その判断は「現代社会を生きる自分の基準」をもとに歴史的作品を読むという過ちを犯しているという点を考慮していない危険性がある。
サルトルの『存在と無』は、前述通り第二次世界大戦中に、フランス人であるサルトルによって発表された。
最終的にフランスは戦勝国となったが、対戦中はドイツに侵攻されるなど決して一方的な勝利とはいえない状況だった。
そんな環境下で、サルトルは『存在と無』を書き、世に出したことを念頭に置いて読むと、激動の現代を生きる私たちにも伝わるメッセージ性を見出すことができるだろう。
「存在と無」とは、意訳して言い換えれば「物と人間」。
ここでは両者の違いについて書かれていると言える。「物」とは机や本といった実際の物のことだが、人間の中にも「物」同然の生き方をしている人もいるとサルトルは論じる。
また「存在と無」とは、意訳して言い換えれば「『〜である』と『〜でない』」。
ぱっと見は「〜である」の方がいいように思えるが、サルトルは人間は常に「〜でない」であるべきだと説く。
「〜である」とは完成形。机も本も完成形で、自身で変化することはない。しかし、人間は物とは違って常に変化・成長すべき存在。だから常に「〜でない」存在であるべきだとサルトルは伝えている。
サルトルはこの『存在と無』の中で、〝指示待ち人間〟を「クソ真面目な精神」と評して厳しく批判している。
外からの指示や刺激(恐怖など)でしか行動できない人は「物と一緒」であり、「自由」とはほど遠い存在だという。
人間は本来、自身で常に目標を掲げ、その目標に向かって自ら行動するべきであり、その目標が達成した場合はそこで満足せず、さらなる目標を掲げ、さらに邁進していかなければならないと論じる。そしてその繰り返しの過程にこそ「自由」があると説いている。
外からの指示や刺激(恐怖)で初めて行動する人は、所属する会社など特定の環境下では一定の評価を得ることができるかもしれない。
しかし、それは人間本来の行動ではなく、物と同じレベルの非人間的行動だということ。また外部からの指示を待たずに、常に自身で目標を掲げて挑戦し続けることが、真の「自由」であるということ。
意訳すると、サルトルはそういったことを訴えているように受け取れる。
サルトルはその後マルクス主義に傾倒したことや、『存在と無』でのメッセージが具体的ではないこともあり、現代社会(特に日本)においてはそれほど高い評価を得ていないようにも思える。
しかし、サルトル以前のほとんどの西洋哲学者たちが宗教の影響から逃れられない中からの論述であるのに対し、無神論者だったサルトルの作品は「神」について客観的に捉えながら書かれているため、現在の日本人にとって共感しやすいとも言える。
私たちは今、この激動の現代社会の中で必死に生き抜いている。
サルトルが言うように、時に「クソ真面目な精神」で「物」のような生き方を余儀なくされている。
40代、残りの人生を考えた時、サルトルの言う「自由」で「自分らしい」生き方をするために、会社の規模や役職などの「〜である」的価値観から飛び出し、「〜でない」という常に変化し続ける意思を持つことが重要だということは間違いない。